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良如

良如(りょうにょ)は、江戸時代前期の浄土真宗浄土真宗本願寺派第13世宗主。西本願寺住職。は光円。院号は教興院。法印大僧正。父は第12世准如九条幸家猶子。母は祇園宝光院(宝寿院 (祇園社の社家)参照)の息女・寿光院准勝。室は九条幸家の娘、継室は八条宮智仁親王の娘殊光院、近江国三井の人(揚徳院寂照)。第14世寂如は次男。子は河内国顕証寺住職(寂淳)、播磨国本徳寺住職(寂円)。弟は(准良)。

良如

慶長17年12月7日 - 寛文2年9月7日(旧暦)

1613年1月27日(グレゴリオ暦換算)[1] - 1662年10月18日(グレゴリオ暦)
幼名 茶々丸
法名 良如
院号 教興院
光円
尊称 良如上人
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
寺院 西本願寺
准如
弟子 寂如、(寂淳)、(寂円)
大谷本廟
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生涯

慶長17年(1613年)に准如の次男として生まれる。長兄が早世したため、幼少時に後継者としての指名を受けた。寛永3年(1626年)に内室の父関白九条幸家猶子となって得度した。寛永7年(1630年)准如の死により西本願寺13世宗主となり、寛永15年(1638年)には大僧正に任じられている。御影堂の再建や学寮の開設、浄土真宗の祖親鸞の忌法要などを行っている。側日記に石川弥右衛門の『石川日記』がある。

当時の本願寺は、元和3年(1617年)の失火により両御堂をはじめ対面所や門などほとんどの建築物を焼失しており、一堂(後に西山別院本堂として移築)のみが再建されていた。良如は継職とともに本格的な御影堂の建立にとりかかり寛永13年(1636年)に、南北三十二間余・東西二十三間余の巨大な木造平屋建築の御影堂(今日の本願寺の御影堂・重文)が完成し、参詣・見物者が数千万と伝えられるほど世間を驚かせるものであった。またこの頃に、現在の対面所(国宝)や飛雲閣(国宝)も造営され、また、大谷本廟の整備については、慶長8年(1603年)に江戸幕府の命令により、知恩院近くにあった廟堂は五条坂に移転(現在の大谷本廟の地)となったが、移転後の本格的な整備は行き届いておらず、寛文元年(1661年)に宗祖四百回大遠忌法要を行うに先だって本格的な整備がなされ、これより歴代宗主の納骨は大谷本廟に行われるようになった。

また、明暦3年(1657年)に「明暦の大火」と呼ばれる江戸の大火により、浜町別院(江戸浅草御坊ともよばれ、現在の築地本願寺の前身)が焼失した。そして、その替え地として与えられた八丁堀の海上を佃島門徒の力により埋立てて、今日の築地本願寺の寺地が築かれた。

このほか、寛永15年(1638年)に今日の龍谷大学の前身となる学寮を造設し、幕府の文治政策に呼応して教学の研鑚を深めた。

茶道藪内流の2代真翁は、寛永11年(1634年)より良如に迎えられて茶道師家となり、以降西本願寺の手厚い庇護を受けることになる。現在の藪内家も西本願寺より与えられた土地にある。

寛文2年(1662年)8月27日に示寂。寂如が第14世となる。

脚注

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  1. ^ 本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生年を用いる。

参考文献 「第13代 良如宗主伝」(宗報 平成24年3月号) - 本願寺史料研究所 龍谷No.72 良如上人御影

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