略歴
脇坂安治の三男として誕生。
大坂の陣では酒井忠世と協力して武功を挙げた。このことから美濃国内に1万石を与えられ、大名に列した。
安信は自分の娘を備中国松山藩初代藩主・池田長幸の次男・長純に嫁がせていた。寛永9年(1632年)4月、長幸が病に倒れた。長幸は遺言として、長男・長常と次男・長純にそれぞれ領地を半分ずつ相続させようとした。同月4日、それに不満を持った安信は弟・安経と共に長幸の許に赴いて抗議した。しかし長幸の弟・長頼と口論から刃傷事件に及んで安経は殺され、安信自身も重傷を負った。そして、この不始末が幕府にも聞こえて、同月7日に改易処分となった。
寛永14年(1637年)、死去。