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耶律希亮

耶律 希亮(やりつ きりょう、1246年 - 1327年)は、大元ウルスに仕えた官僚。字は明甫

概要

生い立ち

耶律希亮は初期モンゴル帝国の官僚として著名な耶律楚材の子の耶律鋳の子で、1246年(丙午)にカラコルムで生まれた。第4代皇帝モンケ・カアンの命によって耶律鋳が銭糧の徴収のため燕京に派遣されるとこれに同行し、この頃9歳だった希亮は現地で(趙衍)に師事した。1256年丙辰)に耶律鋳が任務を終えてカラコルムに戻った時も一人留まり学問を続けたが、1258年戊午)にモンケ・カアンが南宋親征を始めて六盤山に至ると親征軍中の父の下に合流し、家族総出で四川方面への侵攻に加わった[1]

中央アジアでの逃避行

しかし、翌1259年己未)にモンケ・カアンは遠征先で急死してしまい、残された親征軍はクンドゥカイらの指揮によって北上し陝西地方まで戻った。一方、モンゴル帝国ではモンケの後継者の座を巡り遠征軍の一部を率いるクビライと本拠地カラコルムを守るアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発し、クンドゥカイら旧モンケ親征軍はアリクブケ派につくこと表明した。クビライ派の方が有利と見た耶律鋳は旧モンケ親征軍を離脱することを決意したものの、クンドゥカイらの監視の目は厳しく、やむなく妻子を捨てて単身クビライの陣営に逃れた[2]。耶律鋳の読みは大いに当たり後に勝者となるクビライ陣営の下で耶律鋳は高官として栄達したものの、残された希亮とその母は怒ったクンドゥカイによって強い監視の下に置かれた。その後、北上して甘粛地方の(西涼)・甘州に至るとアリクブケ派の中心人物のアラムダールとクンドゥカイが耶律鋳の行く先を審問したものの、「もし行く先を知らされていれば、このように一人軍中に留まることはなかった」と答え、この回答をもっともだとしたアラムダールによって軟禁状態は解かれた[3]

一方、アリクブケ軍は実戦経験豊富なクビライ軍に押されて劣勢となり、クンドゥカイらも敗死したことによってカラ・ブカ(哈剌不花)を指揮官として西に逃れた。希亮はこれ逃れるチャンスと見て甘州の北に潜んだが、結局は見つかってカラ・ブカの下に引き出された。ところが、カラ・ブカはかつて病に陥った時に耶律鋳が医者を手配してくれたことで助けられた恩があると語り、希亮らの身の安全は保証すると請け負った。そこで希亮はカラ・ブカの軍団に留まって更に西進し、やがて天山山脈を越えてウイグリスタンに入り、ジャン・バリクを経てエミル城に至った[4]

エミルは第3代皇帝グユクの領地であるが、グユクの末子のホクは帝位争いに敗れてモンケ家から弾圧を受けた経緯からモンケ政権を引き継ぐアリクブケ政権を嫌っており、希亮らを通じてクビライと誼を通じようとした。また、この頃アリクブケからチャガタイ・ウルスに送り込まれたアルグもアリクブケ政権を見限ってクビライ派についており、グユク家のホクとチャガタイ家のアルグの助けを得て東方への帰還を果たそうとするも、アルグの裏切りに怒ったアリクブケの中央アジア侵攻に巻き込まれ中央アジアの諸城を転々とすることになった[5]。一方、耶律鋳も生き別れた妻子の捜索をクビライに依頼していたが、至元4年(1267年)に至ってようやく希亮らを見つけ出し、同年8月にようやく希亮らは東方に帰還しクビライに見えることができた。クビライは希亮の境遇を憐れみ鈔1000錠・金帯1・幣帛30を授け、ケシクのスクルチ・ビチクチに任じた[6]

大元ウルスの官僚として

東方に帰還して以後、希亮は大元ウルスの官僚として仕えるようになり、至元12年(1275年)に日本遠征論が起こった時にはもう少し様子を見るべきだと進言し受け容れられている[7]。至元14年(1277年)、嘉議大夫・礼部尚書を経て、吏部尚書となった[8]

晩年

至元17年(1280年)、希亮は長年にわたる中央アジアでの逃避行によって足の病気になり、朝廷を辞して20年余りにわたる隠居生活に入った。至大2年(1309年)、クルク・カアン(武宗カイシャン)が先朝の旧臣を探し求めていると希亮が見出され、特に翰林学士承旨・資善大夫から翰林学士承旨・知制誥兼修国史とされ、クビライの嘉言・善行をまとめた書はゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)にまで受け継がれて禁中に置かれた。その後もなお存命し、泰定4年(1327年)に81歳という高齢で亡くなった[9][10]

一族

  • 耶律楚材:生母・楊氏
    • (耶律鉉):楚材の長男、生母・梁氏
    • 耶律鋳:楚材の次男、生母・蘇氏
      • 耶律希亮:鋳の子

脚注

  1. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「耶律希亮字明甫、楚材之孫、鋳之子也。初、六皇后命以赤帖吉氏帰鋳、生希亮於和林南之涼楼、曰禿忽思、六皇后遂以其地名之。憲宗嘗遣鋳覈銭糧于燕、鋳曰『臣先世皆読儒書、儒生倶在中土、願携諸子、至燕受業』。憲宗従之、乃命希亮師事北平趙衍、時方九歳、未浹旬、已能賦詩。歳丙辰、憲宗召鋳還和林、希亮独留燕。歳戊午、憲宗在六盤山、希亮詣行在所。已而鋳扈従南伐、希亮亦在行」
  2. ^ 杉山1996,42-47頁
  3. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「明年、憲宗崩于蜀、希亮将輜重北帰陝右。又明年、為中統元年、世祖即位、阿里不哥反、遣使召主将渾都海。鋳説渾都海等入朝、皆不従、則棄其妻子、挺身来帰。既而渾都海知鋳去、怒、遣百騎追之不及。乃使百人監視希亮母子、迫脅使従行、自霊武過応吉里城、至西涼甘州。阿里不哥遣大将阿藍答児自和林帥師至焉支山、希亮見之。阿藍答児問『而父安在』。希亮曰『不知、与吾父同任事者宜知之』。渾都海怒、詬曰『我焉得知之、其父今亡命東見皇帝矣』。希亮曰『若然、則何謂不知』。阿藍答児熟視渾都海曰『此言深有意焉』。詰希亮甚急、希亮曰『使吾知之、亦従而去、安得独留』。阿藍答児以為実、免其監蒞」
  4. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「既而阿藍答児・渾都海為大兵所殺、其残卒北走、衆推哈剌不花為帥。希亮潜匿甘州北黒水東沙陀中。殿兵已過十餘里、有尋馬者適至、老婢漏言、衆奄至、駆至粛州。哈剌不花与鋳有婚姻之好、又哈剌不花在蜀時、嘗疾病、鋳召医視之、遺以酒食、因釈希亮縛、謂曰『我受恩於汝父、此図報之秋也』。及抵沙州北川、希亮与兄弟徒歩負任、不火食者数日。是冬、渉雪踰天山、至北庭都護府。二年、至昌八里城。夏、踰馬納思河、抵葉密里城、乃定宗潜邸湯沐之邑也」
  5. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「時六皇后之妹主后位、与宗王火忽皆欲東覲。希亮母密知其事、携希亮入見、已而事不果。冬、至于火孛之地。三年、定宗幼子大名王閔其不能帰、遺以幣帛鞍馬、乃従大名王至忽只児之地。会宗王阿魯忽至、誅阿里不哥所用鎮守之人唆羅海、欲附世祖。復従大名王及阿魯忽二王、還至葉密里城。王遺以耳環、其二珠大如榛、実価直千金、欲穿其耳使帯之。希亮辞曰『不敢因是以傷父母之遺体也。且無功受賞、於礼尤不可』。王又解金束帯遺之、且曰『繋此、於遺体宜無傷』。五月、又為阿里不哥兵所駆、西行千五百里、至孛劣撒里之地。六月、又西至換札孫之地。又従至不剌城。又西行六百里、至徹徹里沢剌之山、后妃輜重皆留于此、希亮母及兄弟亦在焉。希亮単騎従行二百餘里、至出布児城。又百里、至也里虔城、而哈剌不花之兵奄至、希亮又従二王興師、還至不剌城、与哈剌不花戦、敗之、尽殲其衆。二王乃函其頭、遣使報捷。十月、至于亦思寛之地。四年、至可失哈里城。四月、阿里不哥兵復至、希亮又従征、至渾八升城。時希亮母従后避暑於阿体八升山」
  6. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「先是、鋳嘗言于世祖『臣之妻子皆在北辺』。至是、世祖遣不華出至二王所、因以璽書召希亮、馳駅赴闕。六月、由苦先城至哈剌火州、出伊州、渉大漠以還。八月、入覲世祖于上都之大安閣、備陳辺事、及羈旅困苦之状。世祖憐之、賜鈔千錠・金帯一・幣帛三十、命為速古児赤・必闍赤。至元八年、授奉訓大夫・符宝郎」
  7. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「十二年、既平宋、世祖命希亮問諸降将、日本可伐否。夏貴・呂文煥・范文虎・陳奕等皆云可伐。希亮奏曰『宋与遼・金攻戦且三百年、干戈甫定、人得息肩、俟数年、興師未晩』。世祖然之。十三年、太府監令史盧贄言於監官『各路所貢布長三丈、唯平陽加一丈、諸怯薛歹以故争取平陽布。苟截其長者、与他郡等、則無所争、而以其所截者、為髹漆宮殿器皿之用、甚便』。監官従之。適左右以其事聞、帝以詰監官、監官倉皇莫知所以対、帰罪於贄、帝命斬之。希亮遇諸塗、贄以冤告。希亮命少緩、具以実入奏。有旨令董文用讞之。竟釈贄、而召御史大夫塔察児等譲之曰『此事、言官当言而不言、向微禿忽思、不誤誅此人耶』」
  8. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「十四年、転嘉議大夫・礼部尚書、尋遷吏部尚書。帝駐蹕察納児台之地、希亮至、奏対畢、董文用問大都近事。希亮曰『囹圄多囚耳』。世祖方欹枕而臥、忽寤、問其故。希亮奏曰『近奉旨漢人盗鈔六文者殺。以是囚多』。帝驚問『孰伝此語』。省臣曰『此旨実脱児察所伝』。脱児察曰『陛下在南坡、以語蒙古児童』。帝曰『前言戯耳、曷嘗著為令式』。乃罪脱児察。希亮因奏曰『令既出矣、必明其錯誤、以安民心』。帝善其言、即命希亮至大都、諭旨中書」
  9. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「十七年、希亮以跋渉西土、足病痿攣、謝事而去、退居㶟陽者、二十餘年。至大二年、武宗訪求先朝旧臣、特除翰林学士承旨・資善大夫、尋改授翰林学士承旨・知制誥兼修国史。希亮以職在史官、乃類次世祖嘉言善行以進、英宗取其書、置禁中。久之、閑居京師、四方之士多従之游。泰定四年卒、年八十一」
  10. ^ 『元史』巻180列伝67耶律希亮伝,「希亮性至孝、困厄遐方、家貲散亡已尽、僅蔵祖考画像、四時就穹廬陳列致奠、尽誠尽敬。朔漠之人、咸相聚来観、歎曰『此中土之礼也』。雖疾病、不廃書史、或中夜起坐、取燭以書。所著詩文及従軍紀行録三十巻、目之曰愫軒集。贈推忠輔義守正功臣・資善大夫・集賢学士・上護軍、追封漆水郡公、諡忠嘉」

参考文献

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