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生涯
織田一門の大身旗本織田信義の次男として誕生し、高家旗本織田信倉の養子となった。
宝暦2年(1752年)12月26日、家督を相続した。天明4年(1784年)7月12日、高家職に就任し、従五位下・侍従・能登守に叙任された。
なお、家臣の加藤右門は、寛政元年(1789年)より享和2年(1802年)まで高倉家(衣紋会)の江戸会頭の一人を務めた[1]。幕府の儀礼に際しての正式な装束を調えるため、公家で衣紋の権威であった高倉家の門人になる武士は少なくなく、江戸の会頭たちは江戸の門人と京都の高倉家との連絡調整を担うとともに、会頭を通さないと入門できないという権力を持っていた[2]。
系譜
子女は3男1女。
脚注
参考文献
井上容子 著「衣紋会の組織と活動について: 近世中後期の高倉家衣紋会を中心として」、久留島浩; 吉田伸之 編『近世の社会集団: 由緒と言説』山川出版社、1995年、115–52頁。