» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

細川勝益

細川 勝益(ほそかわ かつます)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将土佐国守護代。(細川遠州家)当主。官位治部少輔遠江守細川頼種の子孫にあたる。

 
細川勝益
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 文亀2年6月4日1502年7月8日
別名 三郎(通称)
官位 治部少輔遠江守
幕府 室町幕府 土佐守護代
氏族 (細川遠州家)
父母 父:(細川持益)
兄弟 勝益元治、(月関周透)、(元賢)
(政益)元全
(テンプレートを表示)

略歴

細川氏一門・(細川持益)の嫡子として誕生。正確な出生年はわかっていないが、から元服時に室町幕府7代将軍足利義勝偏諱(「勝」の字)を受けたことがわかる。

応仁元年(1467年12月7日、父・持益の死去に伴い、祖父・(細川満益)の代より世襲してきた土佐守護代を継承、同国守護であり在京中の(細川京兆家)(細川本家)当主・細川勝元の代官として現地入りする。しかし、同年に応仁の乱が勃発すると、勝元が大将を務める東軍への加勢のため上洛して参戦する[1]。このため、土佐に不在の間に在地領主の台頭が目立つようになる。

戦乱の最中にあった文明3年(1471年)、上洛してきた下総国出身の僧、(日祝)に対し、南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る広い寺地(40ほど)を寄進。2年後にはこの地に頂妙寺が開山し、明応4年(1495年)、勝益の更なる土地寄進(現在の京都市中京区辺り)により寺域が拡大。

戦乱が治まってからは土佐に戻り、文亀元年(1501年)には土佐田村荘(居城である(田村城)の南西)に曾祖父・(細川頼益)追善のための桂昌寺[2]を建立して、土佐守護代・細川氏の権威を保とうと試みた。

翌文亀2年(1502年)6月4日に死去。跡を継いだ子・(政益)が土佐守護代となるが、永正4年(1507年)に京兆家当主の細川政元(勝元の子)が暗殺される(永正の錯乱)と、子(弟とも)の(国益)と共に上京し[1]、やがて土佐は守護代不在の地となった[1]

系譜

  • 父:(細川持益)
  • 母:不詳
  • 室:不詳
    • 男子:(細川政益)
    • 男子:細川元全(1486-1523)

脚注

  1. ^ a b c 『長宗我部三代記: 四国制覇の夢』より。電子版はこちらより。
  2. ^ 桂昌寺は後に徳川綱吉(江戸幕府5代将軍)の母・桂昌院と字が重なるのを憚って細勝寺と改称している。「細」、「勝」の字は益が由来なのだという。

出典

  • 『長宗我部三代記: 四国制覇の夢』(著:羽生道英、PHP研究所版)

外部リンク

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。