紀元前425年(きげんぜん425ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前6世紀 - 前5世紀 - 前4世紀 |
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十年紀 | 前440年代 前430年代 前420年代 前410年代 前400年代 |
年 | 前428年 前427年 前426年 紀元前425年 前424年 前423年 前422年 |
当時は、「アトラティヌス、メドゥリヌス、キンキナトゥス、バルバトゥスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元329年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前425年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ペルシア帝国
- アケメネス朝ペルシア帝国のアルタクセルクセス1世が死去し、息子のクセルクセス2世が後を継いだ。
ギリシア
- アテナイの将軍デモステネスが、ペロポネソス半島のピュロス (Pylos) を陥れて、城塞化し、アテナイはスパルタに近い場所に強力な拠点を手に入れた。一方、ブラシダス率いるスパルタ軍は、近傍の(スパクテリア島) (Sphacteria) に上陸したが、アテナイ軍から反撃を受けて撤退した。デモステネスが率いたアテナイ艦隊は、ピュロスの湾内でスパルタ艦隊を壊滅させた。
- アテナイ軍によるスパクテリア島侵攻には、クレオンも参戦した。そうして起こった(ピュロスの戦い) (Battle of Pylos) はアテナイの勝利となり、スパルタ軍の兵士多数が投降した。ピュロスはアテナイ側の手中に残り、スパルタの領域を襲撃する拠点となり、また、スパルタ軍から逃亡してきた重装歩兵の亡命先となった。
- アテナイとスパルタの和平交渉が決裂すると、ピュロスの戦いの後、スパクテリア島にとり残された多数のスパルタ軍兵士たちは、クレオンとデモステネスによって追撃された。(スパクテリア島の戦い) (Battle of Sphacteria) でアテナイ軍はさらにスパルタ軍に打撃を与えた。スパルタは講和を求めたが、アテナイ側の指導者クレオンは、スパルタ側の申し出を拒むよう友軍を説得した。
中国
建築
- アテナイの建築家カリクラテスが、アテナイのアクロポリスにアテーナー・ニーケー神殿の建設を始めた。(おおよその年代)[1]
芸術
- 一部の歴史家が「Rich style」と称している様式が、ギリシアで始まる。
演劇
誕生
「(Category:紀元前425年生)」も参照
死去
「(Category:紀元前425年没)」も参照
脚注
注釈
出典
- ^ 後に、紀元前410年から紀元前407年にかけて、神殿の周りにはパラペット(手すり壁) (parapet) が設けられた。