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第十東予丸沈没事故

第十東予丸沈没事故(だいじゅうとうよまるちんぼつじこ)とは、1945年11月6日に発生した愛媛県史最大の海難事故である。荒天の中、定員210名の3倍を超える乗客を乗せた為、復元力を失って伯方島木浦港沖で転覆沈没し、死者・行方不明397名を出す惨事になった。

事故の概要

1945年11月6日9:30頃、尾道港今治港行き瀬戸内海汽船の今尾連絡船「第十東予丸」(162トン)が伯方島木浦港六ツ瀬の約2キロの沖合いの海域で突風の為、転覆沈没したもの。遭難時は突風が吹き荒れていた。付近で操業中の漁船や航行中であった「愛媛汽船」の旅客船「鷹島丸」の他、伯方消防団の救助船と今治警察署の警察船「あさぎり丸」が出動して145人を救助したが、死者・行方不明397名を出す惨事になった。

伯方町では、役場内に、救護本部を設置して生存者の救護、収容し、衣類の提供、非常炊出し等、町を挙げての手厚い救護活動を行った。また、町内の砂浜は簡易の遺体安置所となっていた。

事故が起こった時は第二次世界大戦が終わった2ヶ月後であり、済州島からの復員軍人約400人に加えて、一般客約180人が乗船していた。当時は戦前の古い船舶に定員以上の乗客を乗せるのが当たり前のように行われていた背景がある。事故時も定員の3倍の乗客を乗せていた。

この12年後の1957年には、芸予諸島第五北川丸沈没事故が発生し、その他にも瀬戸内海各地で旅客船の遭難が相次ぎ、本州四国連絡橋架橋運動が盛り上がることになった。いわゆる芸予諸島を通るルート(現:瀬戸内しまなみ海道)は架橋効果が比較的乏しく、立場的に弱い存在であったものの、「芸予諸島島民や四国島民にとって架橋は不可欠である。」として架橋運動が盛り上がり、建設コストや技術的障壁[1]が低いことや、地元選出の越智伊平衆議院議員の尽力もあって1999年5月1日の架橋に至る。来島海峡SAに越智自筆の碑が建立されている。

慰霊祭・慰霊塔・禅興寺

今治市伯方町木浦 曹洞宗禅興寺の裏山墓所に事故の遺族によって慰霊塔が建立されている。また、禅興寺本堂に合同位牌をお祀りしている。事故後70年以上経過しているが、毎年11月に禅興寺にて遺族・親族や、地元関係者が参列し慰霊祭が行われている(2022年は11月3日)。

木浦の六ッ瀬磯には事故海域に向かって慰霊地蔵が建てられている。

禅興寺には、犠牲者名簿が引き継がれ、現在でも、加筆・訂正が続いている。

 
禅興寺裏山墓所にある遺族が建立した慰霊塔
 
六ツ瀬磯の中ほどに慰霊地蔵が見える
 
波打ち際に慰霊地蔵が建ち、事故海域を望む

脚注

  1. ^ 1982年当時の価格で事業費は5850億円と想定され、1兆1100億円の備讃瀬戸大橋や1兆6650億円と想定された神戸~鳴門ルートより遥かに安かった。

関連項目

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