竹内 啓(たけのうち ひらく、文政11年〈1828年〉2月[1] - 慶応3年12月24日〈1868年1月18日〉)は、幕末の勤王派志士、国学者。本姓は小川、幼名は嘉助、号は節斎。通称は外記か[2]。
生涯
武蔵国入間郡竹内村(現在の埼玉県坂戸市)の里正[3]小川新左衛門の長男として[4]生まれる。漢学を朝川善庵、国学を平田銕胤、医学を辻元崧庵に師事し、医者を生業とした[3]。
慶応3年(1867年)10月ごろ、相楽総三や落合直亮らと共謀し、江戸三田の薩摩藩邸に屯集[5]。同年11月、同志とともに下野国出流山に赴き、尊王倒幕を唱えて挙兵した(出流山事件)。しかし江戸幕府の関東取締出役・渋谷和四郎らが率いる諸藩兵に鎮圧され、軍勢は壊滅。竹内も、下総国中田宿(現在の茨城県古河市)で捕らえられた[6]。
渋谷とともに鎮圧軍を率いていた(木村喜蔵)は、武蔵国羽生陣屋(現在の埼玉県羽生市内)へ竹内を護送する途中、「江戸薩摩藩邸を焼き討ちする」という幕府の決定を知り、竹内を奪還する者が現れたら防ぎきれないと懸念した[7]。またそれに加え、相楽の命を受けた峰尾忠通ら数名が、渋谷と木村の屋敷を襲い、その家族を殺害したという知らせも届いたので、報復のために竹内を処刑することに決した[8]。
12月24日、竹内は下総国松戸(現在の千葉県松戸市)の川沿いで斬首された。享年40[7]。明治29年(1896年)9月に靖国神社に合祀され、大正元年(1912年)11月には従五位を贈られた[7]。