生涯
元治2年正月(1864年末ないし翌1865年初頭)ごろから関東取締出役に所属していた[3]。
慶応3年11月(1866年12月)、相楽総三らが企てて竹内啓らが実行した出流山事件を鎮圧するため、木村喜蔵(樾蔵)や宮内左右平らを率いて出動し、挙兵した浪士たちを壊滅させる[4]。その手柄で支配勘定に昇進した[5]。しかしその報復として、相楽が差し向けた峰尾忠通らに家族を鏖殺された[6]。なお、実際に殺害されたのは別の幕臣の家族で、渋谷の被害は下男1人の死亡のみともされる[7]。
その後は岩鼻陣屋に留まっていたが、戊辰戦争が始まって官軍の先鋒が到達すると同所を去り、古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊に加わる[8][9]。長谷川伸は、「和四郎」を「鷲郎」と記すようになったのは衝鋒隊に投じて以降ではないかと推測している[4]。梁田の戦いで敗れた後、下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市)の名主・石井郡造の支援を受け[8]、衝鋒隊に復帰する。会津戦争などを転戦するが、そのまま越後で行方不明となった[10]。
人物
多数の博徒を手懐けていたとされ、出流山事件を鎮圧する際には、博徒たちも渋谷に加勢した[11]。
関連作品
- 『さむらい鴉』- 早乙女貢の小説。主人公に「関八州取締役の渋谷和四郎」を据えているが、内容は史実とは大きく異なる。