竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月25日[1] - 1959年(昭和34年)7月23日[1][2])は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、愛知県碧海郡刈谷町長、刈谷市長。刈谷市名誉市民[1]。
経歴
愛知県[2]碧海郡刈谷町肴町(現刈谷市)で、紺屋業・竹中石松の長男として生まれる[1]。1913年(大正2年)、愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業[1][3]。1918年(大正7年)愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)を卒業した[1][2]。同年、愛知県立愛知病院(現名古屋大学医学部附属病院)に勤務し、1921年(大正10年)耳鼻咽喉科病院を開業した[1][2]。
1932年(昭和7年)刈谷町会議員に選出され、以後、刈谷町長、愛知県町村長会長、愛知県会議員などを務めた[1][2]。
1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で愛知県地方区に無所属で出馬して当選し[1][4]、参議院議員に1期在任した[2]。この間、民主党総務、国民民主党両院議員会長、参議院通商産業委員長などを務めた[2]。その後、1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙に自由党公認で立候補したが落選した[4]。
1955年(昭和30年)7月20日、刈谷市長に就任[1]。教育、土木、民生事業に重点を置いた施策を推進した[1]。病のため1期で1959年7月19日に市長を退任し、同月23日に死去[1]。名誉市民の称号が贈られ市民葬が行われた[1]。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、正五位に叙される[5]。