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稲垣 太祥(いながき もとよし)は、近江山上藩の第9代(最後)の藩主、子爵。位階勲等は従二位勲二等。第8代藩主稲垣太清の長男。正室は藤波教忠の娘。継室は渡辺潔綱の娘。子は(稲垣重厚)(長男)。通称は藤五郎。名は太良とも。日本画を滝和亭に師事し、号は蘭圃。
経歴
明治元年(1868年)12月24日から病に倒れた父の代理として藩政を担う。明治4年(1871年)9月30日、父の隠居により家督を相続する。明治12年(1879年)8月6日、隠居し、妹の民子(後の(松平銀太郎)妻)に家督を譲る。明治19年(1886年)6月28日、民子の隠居により、再び家督を相続する。同年7月16日、子爵となった。稲垣家は女性戸主であったため、叙爵がなされていなかった。明治25年(1892年)7月30日、(貴族院子爵議員)補欠選挙で当選し[1][2]、その後、6期連続で選ばれ死去するまで在任した[1][3]。昭和7年(1932年)正月27日、74歳で死去した。
栄典
家族
父母
妻
子女
- (稲垣重厚)
- 稲垣夏子 ー (大谷勝真)夫人
- 稲垣秋子 ー 岡栄一郎夫人
- 稲垣冬子
脚注
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年