生涯
秋月種信の三男として出生。延宝5年(1678年)12月12日に徳川綱吉に初御目見を済ます。武鑑では藩主二男、または舎弟として掲載されており、元禄元年(1688年)の本朝武鑑では秋月佐渡守と共に「御二男 十三郎」との記載がある。
元禄2年(1689年)2月末日、父の種信が隠居して兄の種政が高鍋藩主の家督を相続する際に、父の封地より木脇村(現在の国富町)を始め日向国諸県郡、宮崎郡内3,000石を分封され、旗本寄合席となる。
宝永2年(1705年)刊行の御林武鑑でも、秋月長門守(種政)の御弟として「秋月式部種乗」の記載がある。
宝永6年(1709年)、48歳で没する。法名は円成院覚厳宗本居士[2]。墓所は下谷広徳寺の梅雲院で、後に代々の葬地となる。
長男の民部は早世していたために没後、次男の種羽が跡を継いだ。
系譜
脚注
参考文献
- 『宮崎県木脇村史 全』(木脇村、昭和13年(1938年))
- 『新訂寛政重修諸家譜 第18』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬)
- 寛政重修諸家譜 巻第千百八十八
- 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、昭和40年(1965年)、名著刊行会)
- 「高鍋町史」(高鍋町史編纂委員会、高鍋町、昭和62年(1987年))