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生涯
毛利元春の5男として生まれた[1]。広世は備後の国人で、同じく大江広元を家祖とする長井氏の当主・長井貞広の養子となっていた[1][2]が、養父貞広は九州探題今川了俊に従って九州を転戦中の南朝:天授元年/北朝:永和元年(1375年)に筑後で討死[3]。そのため広世が長井氏の家督を相続して、当主となった。
父元春は南朝:弘和元年/北朝:永徳元年(1381年)に所領を兄の毛利広房に譲り[4]、隠居したと推測される。長井氏当主となっていた長井広世にも安芸福原村等を与えられた[4]。この後、広世は拠点を福原に移し、鈴尾城を構えて居城とした。
応永6年(1399年)の大内義弘の反乱(応永の乱)で、義弘が堺で討死の後、周防・長門両国を守っていた大内盛見を討伐させるべく、3代将軍足利義満は西国の国人に支援を要請した。この時、足利義満は広世を毛利氏の総領家として認めて、大内攻撃に従事させた[5]。また、今川了俊の覚えもめでたかったため、安芸(三入庄)も与えられるに至った。
しかし広世は、甥の毛利光房が成長すると総領家を返上して、その補佐に務めた。応永21年(1414年)、嫡男朝広に所領を譲った[1]。応永25年(1418年)、毛利光房の子小法師丸を援助し誓文を受けた[6]。 没年は不詳。