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生涯
南朝:天授7年、弘和元年/北朝:康暦3年、永徳元年(1381年)に、父・毛利元春より吉田荘地頭職半分を譲られている。これと同時に毛利家の家督を相続したものと推測される。家督を継承して後の南朝:元中2年/北朝:至徳2年(1385年)に、出陣先の西条にて討死した。
この時、広房には懐妊中の妻がおり広房の死後に男児を出産した。男児の成長までは祖父にあたる元春が後見することになり、この男児が成人後、毛利光房と名乗って家督を継いだ。
脚注
- ^ a b c d e 時山弥八編 1916, p. 66.
- ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 64.
- ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 65.
参考文献
- 時山弥八編国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。