福井 ミカ(ふくい みか、本名:福井光子、1949年4月17日 - )は、ロックバンド『サディスティック・ミカ・バンド』のボーカル、コーラス(当時は加藤ミカ)。京都府船井郡園部町(現在の南丹市)出身。加藤和彦の元妻である。
来歴
1949年4月17日、京都で材木商を営む福井三郎の長女として生まれる[1]。妹が一人いる。父の生家は山を幾つも持つ、裕福な家だった。ミカが2才のとき、一家は京都市東山区に移り住む。活発な性格のミカは、男の子とばかり遊んでいた。ビー玉、メンコ、時代劇遊びなど、ワンパク坊主たちを従えてのガキ大将となる。
中学のころから、ポップスやモダンジャズにのめり込む。はじめて買ったレコードは、コニー・フランシスの「ヴァケーション」。モダンジャズの店に行って、アート・ブレイキー、オスカー・ピーターソンなどを聴き浸る。
平安女学院高校に在学中の17歳の時に学友たちとフォークソング同好会を結成、会長として運営に携わりながら、同級生と「ミカ&トンコ」というフォーク・デュオを結成する[1]。京都のアマチュア音楽団体AFLに加盟するが、二人ともギターをまともに弾けず活動は行きづまる。そこで、もともと加藤和彦の大ファンだったことから、ある日、まだアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズのコンサートの本番前の楽屋に押しかけて、いきなり「加藤さん、ギター教えて下さい!」と迫ったという。
当時龍谷大学の学生だった加藤によるギターのレッスンを重ねるうちに、ライヴ・デビュー出来るまでに腕を上げた「ミカ&トンコ」は、フォークルをはじめ、杉田二郎、ロック・キャンディーズ(アリス結成前の谷村新司が在籍)などと共に京都周辺でのフォーク・コンサートに出演。時には彼女たちのステージに加藤がギターで参加することもあった。高校3年のときには免許を取ってクルマで通学した。
京都精華大学美術科に進学後、「帰って来たヨッパライ」の大ヒットで一躍“時の人”となっていた加藤と交際を開始[1]。1970年7月に結婚し、カナダのバンクーバーで挙式[1]。
1971年11月、加藤和彦が友人ドラマーのつのだ☆ひろと共にお遊びで結成したパーティー・バンド『サディスティック・ミカ・バンド』に、ヴォーカリストとして参加、3人で結成。
1972年6月5日、シングル曲「サイクリング・ブギ」でデビュー。1973年5月、ファーストアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』を発表[2]。1974年、ボーカルに難ありと言われながらも、「タイムマシンにおねがい」ではメインボーカルを担当。
1974年11月、セカンドアルバム『黒船』をリリース[2]。プロデュースをビートルズやピンク・フロイドを手掛けたイギリスのクリス・トーマスが担当する[3]。
1975年9月、ロキシー・ミュージックのイギリスツアーに参加する[2]。クリス・トーマスとイギリスツアー中に恋愛関係になる。
1975年11月、加藤和彦と離婚、ミカ・バンドも解散した。離婚後、ミカはクリス・トーマスと事実婚、ロンドンに在住。
1984年、クリスと破局。
1985年、イギリスで永住権を取得。イギリスでも高名なフランス料理学校に通いフレンチ・シェフの道を目指す[1]。翌1986年、フランス料理学校卒業後、いくつかの店で修業を積み、パティシエ、ワイン・ソムリエとしてのキャリアも築く[1]。
1987年、日本に帰国。親友のコシノミチコのファッション・ショーでの音楽コーディネイトを手がける[1]。
1988年、自伝本を出版[1]。1989年、作詞家として、織田哲郎の楽曲に提供した。
1994年11月、収録曲すべてを自作曲だけでまとめた初ソロ・アルバムをリリース[1]。
1997年、日本武道館で行われた高中正義のソロライブに登場し「タイムマシンにおねがい」を披露。
1990年代末からは、「レディ・シェフ・ミカ」ブランドを立ち上げ、料理やワインの研究・アドバイス、レストランのプロデュース、調理器の開発などの活動を現在も続けている[1]。
2021年現在は、料理研究家として活動している。
エピソード
- 1970年にカナダのバンクーバーで挙式するが、まだ海外での挙式が珍しかった時代だったので、創刊間もない雑誌『anan』が取材に来る。
- クリス・トーマスがプロデュースしたバッドフィンガーの『Wish You Were Here(素敵な君)』収録の「Know One Knows(誰も知らない)」での日本語のスポークン・ワーズもミカが担当した。
- デヴィッド・ボウイの1980年製作アルバム『スケアリー・モンスターズ』の1曲目「It's No Game, Pt.1」において、日本人女性のナレーションをミカに依頼したが、断られたというエピソードがある。
- ポール・マッカートニー、リンダ・マッカートニー夫妻とは家族ぐるみの付き合いで、1980年のウイングス来日にも同行した。
- しかしこのときポールがドラッグを所持していたため拘置(のちに強制退去)され公演は中止になり、予定されていたYMOとのセッションも実現しなかった。ポールの逮捕から釈放までの期間、都内のホテルに滞在していたリンダと子供たち、ウイングスのメンバーたちをケア(京都観光やショッピングなど)した。
- またリンダやクリス・トーマスと共にかつてのバンド仲間である高橋幸宏を訪ね、当時アルバム『増殖』を制作中だったYMOのレコーディングにも飛び入り参加した。収録曲「Nice Age」の中でニュース速報を読んでいるのはミカである。YMO側が何かメッセージをということで、ニュース速報という形でリンダのメッセージがミカのナレーションで入れられた。
- ナレーション内の「22番」というのはポールの拘置中の番号で、「Coming Up Like A Flower」は同年4月になって発表されたポールのシングル「カミング・アップ」で歌われるフレーズである。
作品
アルバム
- 『ジャラン ジャラン』(1994年) - 音楽プロデュース・作曲・作詞
著書
- 『ミカのチャンス・ミーティング』 - 中村俊夫との共著(1988年 宝島社)※自伝
- 『ラブ&キッス英国 - イギリスは暮らしの達人』 (1996年 講談社)※英国での生活を綴った本
テレビ番組
脚注
注釈
- ^ 加藤和彦と共演、神戸・六甲。