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神野金之助 (初代)

神野 金之助(かみの きんのすけ、1849年5月7日[1]嘉永2年4月15日[3]) - 1922年大正11年)2月20日[1])は、尾張国海西郡江西村出身の実業家

かみの きんのすけ
神野 金之助
生誕神野 岸郎[1]
(1849-05-07) 1849年5月7日
日本尾張国海西郡江西村[2]
死没 (1922-02-20) 1922年2月20日(72歳没)[1]
日本
墓地 日本愛知県名古屋市千種区平和公園聖徳寺墓地[1]
国籍 日本
別名神野重行(本名)・念仏院西善(法名)[1]

(かみの)家は、代々(じんの)を名乗っていたが、(じんの)への改称時期は諸説あるが大正の初期と思われる。改称については下に記載する。金之助が開拓した新田が命名された明治28年当時は(じんの)を名乗っていたので、新田名は神野新田(じんのしんでん)である[4]

人物

豪農神野金平とマツ子の五男として出生[1]

身長・体重

明治42年8月に渋沢栄一を団長とする「渡米実業団」に参加したが[5]、身長と体重の情報が掲載された同行紀の『新洋行土産』が残っている[6]。初代神野金之助60歳、身長5.56尺(170Cm)、体重15.9貫(60kg)とある[6]

団員51名の内、名古屋から参加したのは初代神野金之助を含む3名だった[7]。「渡米実業団」は日米両国政府の公式行事としての「民間経済活動」であり、8月16日は桂太郎総理主催の送別会、8月17日は明治天皇より午餐を賜り、8月19日に横浜港から米国に向けて出港している[8]

じんの姓からかみの姓への改称について

改称時期は大正12年説と、年代が特定できないが大正11年以前説との2つの説がある。

「じんの」姓から「かみの」姓への改称について、明確にしているのは神野新田資料館のパネルにある、大正12年で初代金之助の没後の翌年である[要出典]。しかし初代金之助は危篤に際し特旨をもて従五位に陞叙せられたが、これは大正11年2月19日に明治銀行の頭取であった大三輪奈良太郎と明治銀行と名古屋電気鉄道で役員をした上遠野富之助の連名で、特旨を電報で願い出て認められたためである[9]。電文には「カミノキンノスケ」とあり、初代金之助が側近として信頼を置いていた二人が、電報で初代金之助の姓を間違える訳もなく、初代金之助が亡くなる前に「カミノ」に改姓していたことになる[9]

なお改称の年は不明だが、初代金之助の甥であり娘婿でもある豊橋神野家初代当主の神野三郎の談話として「最初は確かにジンノだった。新田もジンノ新田であったが、大正の初め頃本家が、カミノと改めたので、わしのほうも、自然と、カミノになったのだ。」と、神野三郎伝に記載されている[4]

実業団の活動は通信担当として同行した作家の巖谷小波が同行紀『新洋行土産』上巻・下巻を残している[10]。『新洋行土産』上巻には氏名に振り仮名が振られており、神野金之助には「かみのきんのすけ」とある[10]。したがって明治42年8月の時点では「カミノ」姓であったことは明らかである[10]

現時点の調査では、改姓の時期は明治39年から40年と考えられるが、今だ明確な証拠は発見できていない。[独自研究?]

経営した代表的な会社

明治銀行

明治29年8月に初代神野金之助、奥田正香など名古屋の新興財閥が中心となって設立され、明治31年1月に初代神野金之助が頭取となった。明治41年に経済悪化の影響を受け、上遠野富之助を常務取締役に取り立てて経営の改善を図った。大正3年5月に北濱銀行の破綻により取り付け騒ぎが発生し、対応策として上遠野富之助が常務取締役退任、大三輪奈良太郎[11]が後任となった。初代金之助は大正4年に大三輪奈良太郎を副頭取にし、翌大正5年末に頭取を辞任した。[12]

名古屋電気鉄道

名古屋電気鉄道は名古屋鉄道の前身であり、明治27年の設立に係わり、初代取締役社長は甥の富田重助が就任する。神野金之助も明治43年6月に取締役社長に就任する。[13]大正3年9月の電車焼討事件の責任を取り、神野金之助は相談役に退き、上遠野富之助が常務取締役に、甥の富田重助が社長に再任された。

福壽生命

明治41年初代神野金之助、甥の富田重助など名古屋の財界人により、地元資本による生命保険会社が計画された。これは生命保険業に関する経験と知識を持ち合わせた近藤徳次郎[14]が地元にいたことで可能であった。同年10月1日に廣小路通榮町にて事務所を開き初代社長は初代神野金之助、専務取締役には甥の富田重助が就任した。[12]その後の経営と人事は福寿生命保険株式会社社史を参照。[15]昭和17(1942)年に旧明治生命に合併され、2002年に旧明治生命と安田生命が合併して明治安田生命となる。[16]

年表

1864年元治元年)、家督を相続し、苗字帯刀が許される[1]

1873年明治6年)、江西村ほか九か村戸長を務める[2]

1876年(明治9年)、兄である(富田重助)の名古屋紅葉屋の経営に参加する[2]

1882年(明治15年)、名古屋銀行設立発起人に名を連ねる[17]

1884年(明治17年)に額田郡にある菱池(菱池沼)の干拓事業、さらに渥美郡牟呂村地先に所在した毛利新田の再開発(神野新田)も手がける[2]

1893年(明治26年)4月15日、新田地籍一式と牟呂用水を購入した。[18]

1893年(明治26年)6月、新田開拓工事を開始した。[19]

1895年(明治28年)2月10日、新田内に牟呂神富神明社(内宮)、五郷神社(外宮)、二開神社(外宮)の3神社を建立した。[20]

1896年(明治29年)3月、神野尋常小学校を新設した。[21]

1896年(明治29年)4月15日、新田の竣成を迎え成工式を行い、併せて紀念碑の建設式を挙げた。[18]

1898年(明治31年)から1916年大正5年)まで、奥田正香により取り立てられ、明治銀行頭取の職を務める[22]。また、同行の大株主ともなった[23]

1904年(明治37年)4月15日、寄付で建設していた圓龍寺が完成した。[18]

1904年(明治37年)(貴族院多額納税者議員)に選出され、同年9月29日に就任し[24]1906年(明治39年)9月29日まで在任した[1][25][26]

1906年(明治39年)、名古屋電力の設立に際し、取締役に就任する[27]

1907年(明治40年)、豊田式織機(現・豊和工業)設立に際し、発起人となる[28]

1908年(明治41年)、(福壽生命保険会社)が設立され、同社社長となる[29]

1915年(大正4年)11月10日従六位に叙せられた[30]

1922年(大正11年)2月20日、危篤に際し特旨をもて従五位に陞叙せられた[31]

その他、名古屋米穀取引所・(名古屋肥料)・大日本坩堝(現・(日本ルツボ))・東海汽船名古屋鉄道などの設立・経営に関わり、名古屋財界の立役者となった[2]

葬儀は(一柳葬具総本店)が手がけた[32]。また、その葬儀は日本初の霊柩車の使用例であるとされる[33]

伝記

  • 堀田璋左右『神野金之助重行』神野金之助翁伝記編纂会、名古屋、1940年。 

親族

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i 林董一 1976, p. 238.
  2. ^ a b c d e f 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 1991, p. 455.
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  4. ^ a b 神野三郎伝. 中部瓦斯. (1965年) 
  5. ^ “団員一覧|渡米実業団|渋沢栄一|公益財団法人 渋沢栄一記念財団”. www.shibusawa.or.jp. 2022年8月20日閲覧。
  6. ^ a b “新洋行土産. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年8月20日閲覧。
  7. ^ “渡米実業団|渋沢栄一|公益財団法人 渋沢栄一記念財団”. www.shibusawa.or.jp. 2022年8月20日閲覧。
  8. ^ “渡米実業団|渋沢栄一|公益財団法人 渋沢栄一記念財団”. www.shibusawa.or.jp. 2022年8月20日閲覧。
  9. ^ a b “神野金之助特旨叙位ノ件”. www.digital.archives.go.jp. 2022年8月20日閲覧。
  10. ^ a b c “新洋行土産. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年8月20日閲覧。
  11. ^ “東京名古屋現代人物誌「大三輪奈良太郎」”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2020年10月18日閲覧。
  12. ^ a b 神野金之助重行. 神野金之助翁伝記編纂会. (1940) 
  13. ^ 神野金之助重行. 神野金之助翁伝記編纂会. (1940) 
  14. ^ “名古屋百人物評論(近藤徳次郎)”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2020年10月19日閲覧。
  15. ^ “福寿生命保険株式会社史”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2020年10月19日閲覧。
  16. ^ “旧明治生命の沿革”. 明治安田生命. 2020年10月19日閲覧。
  17. ^ 北見昌郎 2013, p. 121.
  18. ^ a b c 神野金之助 (1904年(明治37年)). 神野新田紀事. 神野金之助 
  19. ^ 神野金之助 (1904年(明治37年)). 神野新田紀事. 神野金之助 
  20. ^ 神野金之助 (1904年(明治37年)). 神野新田紀事. 神野金之助 
  21. ^ 神野金之助 (1904年(明治37年)). 神野新田紀事. 神野金之助 
  22. ^ 北見昌郎 2016, p. 47.
  23. ^ 北見昌郎 2013, p. 251.
  24. ^ 『官報』第6377号、明治37年9月30日。
  25. ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、195頁。
  26. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
  27. ^ 北見昌郎 2013, p. 348.
  28. ^ 北見昌郎 2013, p. 358.
  29. ^ 北見昌郎 2013, p. 373.
  30. ^ 北見昌郎 2016, p. 113.
  31. ^ 『開校廿周年記念東三河産業功労者伝、神野金之助』豊橋市立商業学校、昭和18https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1705146/185?viewMode= 
  32. ^ 北見昌郎 2013, p. 91.
  33. ^ 北見昌郎 2013, p. 92.
  34. ^ 人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年、か129頁。

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 林董一「神野金之助重行」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、238頁。 
  • 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 編『角川日本姓氏歴史人名大辞典23 愛知県』角川書店、1991年10月30日。ISBN (4-04-002230-0)。 
  • 北見昌郎『愛知千年企業 明治時代編』中日新聞社出版部、2013年7月19日。ISBN (978-4-8062-0654-5)。 
  • 北見昌郎『愛知千年企業 大正時代編』中日新聞社出版部、2016年2月12日。ISBN (978-4-8062-0701-6)。 

外部リンク

  • 神野新田のホームページ
  • 圓龍寺のホームページ(初代神野金之助が自費で建立した)
  • 牟呂神富神明社・五郷神社・二開神社のホームページ(初代神野金之助が自費で建立した)
  • 神野さん・故郷の江西のホームページ
  • 紅葉屋  &  紅葉屋財閥のホームページ(神野富田両家の事業拡大の歴史)
  • 神野新田資料館のホームページ
  • 神野新田三十三護岸観音のホームページ
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