神坂 雪佳(かみさか せっか、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和17年(1942年)1月4日)は、近現代の日本の画家であり、図案家。京都に暮らし、明治から昭和にかけての時期に、絵画と工芸の分野で多岐にわたる活動をした。本名は吉隆(よしたか)。
概説
京都御所警護の武士・神坂吉重の長男として、幕末の京都・(粟田口)(現・京都市粟田口)に生まれる[1]。1881年(明治14年)、16歳で四条派の日本画家・(鈴木瑞彦)に師事して絵画を学び、装飾芸術への関心を高めたのちの1890年(明治23年)には図案家・(岸光景)に師事して工芸意匠図案を学び[2]、岸が傾倒していた琳派に魅かれるようになった[3]。1901年(明治34年)には、イギリスで開催されたグラスゴー国際博覧会 (Glasgow International Exhibition) の視察を目的とし、世界各地の図案の調査を兼ねて渡欧。当時のヨーロッパではジャポニスムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。神坂もそこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。
琳派に傾倒し、琳派の俵屋宗達らが使った絵具のにじみを利用する(画法)「たらしこみ」[3]のほか、デフォルメ、クローズアップ、トリミングを用いた大胆な構図、など、琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。1913年(大正2年)には岸光景とともに、琳派の本阿弥光悦を顕彰する「光悦会」発起人となった[3]。自身が主催する「佳都美会」を1919年(大正8年)に「佳都美村」に改称したのは、光悦が京都の鷹峯に開いた「光悦村」に倣ったという見解もある[3]。染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。
蒔絵師の(神坂祐吉)は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。日本画家の(神阪松濤)も弟[4]。
1942年(昭和17年)1月4日、77歳で死去した。2年後の1944年(昭和19年)には長男の吉明らにより遺作展が開かれた[3]。
評価
この節の加筆が望まれています。 |
雪佳の創作活動の大きな特徴は、暮らしを彩るデザインを提供し、空間のトータルコーディネイトをした点にある。実用性の高い図案集の出版から、工芸品の意匠、調度品の装飾、絵画制作に至るまで幅広い仕事をこなし、京都産業界の振興や工芸界の活性化に尽力した。その業績から「光琳の再来」とも称されている[5]。
2001年(平成13年)、ファッションブランドのエルメスが発行する雑誌『LE MONDE D`HERMES』の表紙を飾った[6]。
2022年(令和4年)、雪佳の功績を振り返り、約80点の作品を展示する「つながる琳派スピリット 神坂雪佳」展が、京都の細見美術館や東京のパナソニック汐留美術館で開催された[7][8][9]。
主な作品
芸術作品
- 四季草花図屏風(しきそうかず びょうぶ) :六曲一双。
文献
- 蝶千種(ちょうせんしゅ)
- 海路(うみぢ)
関連項目
脚注
- ^ 福田民郎「近代の京漆器意匠(2) : 神坂雪佳と明治中期の京漆器」『デザイン理論』第26号、関西意匠学会、1987年11月、46(p.45-66)、ISSN 0910-1578、NAID 120005650444。
- ^ 神坂雪佳 小学館 日本大百科全書 コトバンク(2018年8月20日閲覧)
- ^ a b c d e f g 【美の粋】琳派モダン 神坂雪佳の風流(上)草木を愛でる 伝統を愛でる/小川敦生多摩美術大学教授『日本経済新聞』朝刊2021年7月11日14-15面
- ^ 神阪松濤 デジタル版 日本人名大辞典+Plus コトバンク(2018年8月20日閲覧)
- ^ “つながる琳派スピリット 神坂雪佳展”. アートアジェンダ. 2022年11月26日閲覧。
- ^ “琳派をリニュアルした図案化・神坂雪佳/エルメス・清水六兵衛”. 骨董品こたろう (2021年12月12日). 2022年11月26日閲覧。
- ^ “つながる琳派スピリット 神坂雪佳”. インターネットミュージアム. 2022年11月26日閲覧。
- ^ “つながる琳派スピリット 神坂雪佳”. 細見美術館. 2022年11月26日閲覧。
- ^ “つながる琳派スピリット 神坂雪佳”. パナソニック汐留美術館. 2022年11月26日閲覧。
- ^ 芸艸堂(うんそうどう):1892年(明治24年)、木版摺技法による美術書出版社として創業し、現在は手摺木版和装本を刊行する日本唯一の出版社として数々の作品の複刻制作を行う。