略歴
天正5年(1577年)、1万石を与えられ、播磨龍野城主(城代)とされる。天正18年(1590年)、小田原の役に従軍し、文禄元年(1593年)の文禄の役では肥前名護屋城に、三ノ丸御番衆の御馬廻組として駐屯した。
文禄4年(1595年)正月、秀吉の草津湯治で、木下与右衛門と共に福島宿を警固した[1]。同年11月2日、従五位下紀州守に叙任される[1]。
慶長3年(1598年)の秀吉の死で、遺物黄金15枚を受領[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して領地を失ったが、藤堂高虎のとりなしにより助命された。翌慶長6年6月19日没。
子孫
石清水八幡宮志水氏の娘・お亀の方を側室として光忠をもうけたが、正室浅井氏の嫉妬によりお亀の方は程なく実家に帰された。その後にお亀の方は奥勤めに入り、徳川家康に見初められて側室となり、松平仙千代、尾張藩主・徳川義直を産む。この縁により、光忠は尾張藩に1万3百石で召し抱えられ、重臣となった。