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毛利勝信

毛利 勝信(もうり かつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣氏の家臣。豊臣政権の官僚・有力武将として活動した[3]。別名は吉成(よしなり)、本姓は森氏で、森吉成を名乗った期間が長く、毛利吉成とも称する。官位は壱岐守。号を一斎。子に毛利勝永(吉政)、(山内勝近)(吉近)など。

 
毛利 勝信 / 森 吉成
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長16年5月6日[1]1611年6月16日
改名 森吉成 → 毛利吉成 → 毛利勝信
別名 吉成、通称:壱岐守、号:一斎
戒名 白雲院殿好雪神祇[2]
墓所 秦泉寺(高知県高知市
官位 従五位下壱岐守
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 森氏 → 毛利氏
兄弟 勝信、(吉雄)(吉衛)
勝永(吉政)、(吉近) ほか
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略歴

尾張国で誕生したとされるが[4]近江国長浜で誕生したとする説もある[5]。また尾張国葉栗郡の曼陀羅寺を菩提寺とする森一族であるとする説もある[6]。弟に(毛利吉雄)(吉衛とも)がいる。早くから豊臣秀吉に仕えた古参の家臣で、黄母衣衆の1人であった。

秀吉による九州平定に参戦し、城井谷城攻略の過程などに関与する。肥後国人一揆では首謀者の隈部親安甲斐親英を捕らえて斬るという鎮圧の功[7]をあげて、天正15年(1587年)、豊前国の2郡(規矩郡、高羽郡)、小倉6万石を与えられた。この際に、秀吉より森姓を毛利姓に改めるように命じられ、毛利壱岐守を称した。

小倉では、旧城を改修して現在の小倉城を築城し、支城の岩石城は弟の毛利吉雄に預けた。高山右近のキリシタンの旧家臣団を引き受けた一方で、地元で勢力を誇った英彦山神宮と長く対立した。

文禄元年(1592年)、秀吉による朝鮮出兵では2,000人の軍役を命ぜられ、四番隊の長として島津義弘らの南九州勢を率いて渡海して江原道に展開した。また南部布陣後の第二次晋州城攻防戦に参加し、和平交渉期には林浪浦城を築いて朝鮮南部に在番した。続く慶長2年(1597年)の(慶長の役)では、子の勝永を伴って出陣し、加藤清正らとともに黄石山城を攻略し、全州会議後は忠清道から全羅道を掃討した。このとき井邑会議に参集した左軍の諸将は連著で今後の作戦展望として「南部再布陣の計画では釜山の守備が立花宗茂とされていたが、重要拠点のために豊臣政権に信望高い老将・毛利勝信に変えるべき」との書状を秀吉に送っている。南部へ帰還した勝信はまず(泗川倭城)を築城して守将担当の島津義弘に渡し、勝信自身は前述の注進の通りに釜山に在番した。年末から始まる第一次蔚山城の戦いでは蔚山倭城で窮地に陥った加藤清正を救援し攻城中の明軍を大破した。この戦いの後に勝信は西生浦倭城へ移陣し最終局面まで在番した。

慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金20枚を受領した[8]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成方について、勝永が伏見城を攻めた。豊前にいた勝信は、勝永に同行した家老・(毛利信友)(九左衛門)が伏見で戦死したので、支城・香春岳城の城主に自分の子を据えようとしたが、信友の郎従と遺子・吉十郎は激怒して香春岳城を黒田如水に譲ってしまい、その先鋒となった。如水は勝信に石田方敗北を知らせて投降するように勧めた。如水とは旧知の仲であり、説得に応じて徳川家康へのとりなしを依頼し、勝信は剃髪して一斎を号した。ところが実は如水はすでに豊前一国の切り取り自由、安堵の約束を取り付けており、騙された勝信・勝永は戦後改易されて、肥後国へ追放されることになった。

 
墓所(高知県高知市中秦泉寺)

毛利親子の身柄は加藤清正、次いで旧知の仲であった山内一豊土佐国で預かった。これはもともと豊臣家臣団で上役の勝信が一豊の面倒を見てきたことに加えて、勝永が石田方にありながら一豊の妻の千代の保護に奔走していたためといわれており、土佐では大高坂城西郭で生活をしていた[9]。また一豊に登用されて城の普請にも携わった[9]

慶長16年(1611年)5月6日[1]、配所で死去した。翌日、小高坂山で荼毘に付され、尾戸山に葬られた。墓石の大きさは九尺四方で、山内忠義がこれを建立した。墓所ははじめは江ノ口尾戸山法華宗(喜円坊)にあったが、後に久万村に移された[2]

「毛利」姓の同族関係について

森姓から毛利姓に替えたものに、毛利高政、(毛利吉安)兄弟などがいるが、この森高次の二人の息子ら一族と勝信の系譜との関係性は不明。何れも尾張出身で、同族か近縁と推測することもできる。また同じく、毛利信友も親族と思われるが続柄は不明。

子孫

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p.252
  2. ^ a b (今福匡) 『真田より活躍した男 毛利勝永』(宮帯出版社、2016年)158頁
  3. ^ 守矢家文書』によるといわゆる五奉行とともに政務に携わった十人衆として富田一白佐々行政寺西正勝、吉成(勝信)、堀田一継石田正澄片桐貞隆石川光元山中長俊木下延重の名が挙げられている。
  4. ^ 『土屋知貞私記』による。今福 2016, p.26
  5. ^ 今福 2016, p.27
  6. ^ (今福匡) 『真田より活躍した男 毛利勝永』第2刷(宮帯出版社、2016年8月)275頁、高澤等の説として紹介。
  7. ^ 角田政治『熊本市・飽託郡誌 : 附県下名都名勝』名著出版、1974年、231頁。 (ASIN) B000J9F5JS
  8. ^ 高柳 & 松平 1981, p.251
  9. ^ a b 今福 2016, p.145
  10. ^ 南の島が沈んでゆく
  11. ^ “在ミクロネシア日本国大使館:モリ大統領、高知を訪問” (2008年8月10日). 2011年9月19日閲覧。

参考文献

  • 福本日南「国立国会図書館デジタルコレクション 毛利勝永」『大阪城の七将星』文会堂書店部、1921年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965668/135 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 国史研究会 編国立国会図書館デジタルコレクション 『国史叢書』国史研究会部、1916年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441736/162 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、251-252頁。 
  • (今福匡) 『真田より活躍した男 毛利勝永』(宮帯出版社、2016年)(ISBN 9784801600461)
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