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石井家

石井家(いわいけ)は桓武平氏(高棟王流)の公家華族である。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵[1]

石井家
まる揚羽あげはちょう
本姓 桓武平氏(高棟王流)
西洞院庶流平松庶流
家祖 (石井行豊)
種別 公家半家
華族子爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
千葉県船橋市
支流、分家 (梶野家)(奈良華族
小松家奈良華族
(凡例) / (Category:日本の氏族)

歴史

東福門院徳川和子)付きの女官で西洞院時慶従二位参議)(1552年 - 1640年)の娘行子の養子となった(石井行豊)(従二位中納言)(1653年 - 1713年)を祖とする。行子の宮中での呼び名(石井局)にちなんで石井を家名とした。

石井家設立が上のように複雑な経緯をたどったのは、初代・行豊は正二位・権中納言・(平松時量)(1627年 - 1704年)を実父とするが、養子先である石井局の勤務を後水尾上皇及び東福門院が労うという形で行豊に新家の創設を認めたためである。

(家格)は半家極官正二位中納言である。

江戸時代家禄は130[注釈 1]

明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると石井家も公家として華族に列した[2][3]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として(行昌)が子爵に叙された[5]

(隆臣)の代に石井子爵家の邸宅は千葉県船橋市九日市にあった[6]

系譜

実線は実子、点線(縦)は養子。
西洞院時慶
 
 
 
(行子)
(石井局)
 
 
 
(石井行豊)1
 
 
 
(行康)2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(行忠)3(日野西資敬)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(行文)4(七条隆久)
 
 
 
(行宣)5[7]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(行弘)6(行遠)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(行遠)7(梶野行篤)
〔梶野家〕
(小松行敏)
〔小松家〕
 
 
 
 
 
(行光)8八十子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(行知)9(滋野井実麗)行正[8]
 
 
 
 
 
(行昌)10行一
 
 
 
(隆臣)11[9]
 
 
 
行毅12

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の石井家領は山城国相楽郡菅井村のうち130石であった。
  2. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[4]

出典

  1. ^ 小田部雄次 2006, p. 332.
  2. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  4. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  5. ^ 小田部雄次 2006, p. 329.
  6. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 326.
  7. ^ 樋口基康の子。
  8. ^ (平松時言)の8男。
  9. ^ (油小路隆元)の2男。

参考文献

  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN (978-4121018366)。 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN (978-4820540342)。 
  • 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館2010年
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館1996年
  • (近藤敏喬)編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版1994年
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