石井 信忠(いしい のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の重臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 弘治2年(1555年) |
死没 | 天正12年3月24日(1584年5月4日) |
別名 | 四郎左衛門尉 |
戒名 | 法善院殿妙祝 |
墓所 | 佐賀県佐賀市 常照院 |
主君 | 龍造寺隆信 |
氏族 | 肥前石井氏(藤原氏) |
父母 | 父:石井常忠、母:石井忠次の娘 |
兄弟 | 信易、信忠、常永、(石井正国)室、 (石井忠正)室、(石井四郎兵衛)室 |
妻 | 正室:石井賢次の娘 |
子 | (石井茂明)室、(執行種吉)室 養子:(茂明)((石井忠正)次男) |
来歴
父石井刑部少輔常忠は、龍造寺隆信の御馬廻衆の勇将として知られ、「無双の荒武者」四将の一人に数えられている。
長じて、隆信より偏諱を授けられて、「信忠」と名乗る。隆信の隠居後の側衆である「須古御側衆」に名を連ねていることから、隆信の側近として文武にわたり活躍したものと推察される。
信忠も、父譲りで武勇の誉れ高く、かつ慈悲心にも富み、聡明な人物であったと伝わる。
天正11年(1583年)、隆信が筑後国柳川城主で、娘婿でもあった蒲池鎮漣を謀殺したとき、義理の叔父鍋島直茂とともに、信忠も一隊を率いて蒲池一行を襲撃した。このとき、鎮漣を護衛する側近(大木忠五郎)と一騎討ちとなり、忠五郎の放った短刀が大腿部に命中した。信忠は忠五郎を討ち取ったものの、重傷を負い、片足が不自由になった。
翌年の沖田畷の戦いでは、信忠は隆信の有馬攻めに懸念を感じており、厳しい戦いになることを予測した。昨年の蒲池鎮漣謀殺の頃から、龍造寺氏の家運に衰亡の兆しを覚え、加えて、みずからも片足が不自由であったため、自身の最期を予感する。信忠は、出陣に先立ち、叔父鍋島直茂・叔母陽泰院夫妻を訪ねて、みずから亡き後の遺児たちの養育を夫妻に託したという。
沖田畷の戦いでは、旗本隊の将として、本陣近くで隆信の警護についていたが、島津軍の猛攻により本陣が壊滅。主君隆信と共に戦死した。享年30。
家督は、鍋島直茂・陽泰院夫妻の取り成しにより、長女の婿である(石井右京亮茂明)(石井左衛門尉忠俊の嫡男(兵部少輔忠正)の次男)が継いだ。子孫は家禄260石を食んで、11代目の(権弥忠模)のとき明治維新を迎えた。次女は執行種兼の嫡孫(種吉)に嫁いだ。
系譜
①石井信忠(四郎左衛門)=②(茂明)((石井忠正)次男、右京亮)-③(資長)(四郎左衛門)-④(忠尭)(九左衛門)-⑤(忠恒)(杢左衛門)=⑥(忠真)(中野氏、九左衛門)-⑦(忠豊)(九左衛門)-⑧(忠昆)(杢之允)-⑨(忠益)(九左衛門)=⑩(忠侃)(忠益実弟、四郎左衛門)-⑪(忠模)(権弥)
参考文献
- 『(北肥戦誌)((九州治乱記))』((青潮社)刊)
- 『直茂公譜』(佐賀県立図書館所蔵)
- 『石井系譜』(佐賀県立図書館所蔵)