» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

矢部氏

矢部氏(やべし)は、日本の氏族のひとつで因幡国八東郡を拠点とする国人領主の一族。

経歴

矢部氏は元々、駿河国安倍郡矢部村の地頭であった。正治2年(1200年) 、梶原景時一族を討ち取った功績で矢部十郎暉種が因幡国八東郡20か村を与えられて入部した。 上記以外に昔から日本に住んでいる大和民族和人であり藤原氏の家臣で功績により中臣鎌足天智天皇から賜氏、藤原北家、中臣鎌足が天智天皇から賜氏(藤原氏)、藤原南家菅原氏にもみられ、昔から先祖代々受け継いでいる家紋が下り藤の矢部氏がいて末裔が生存している。

鎌倉時代

元応元年(1319年10月4日の「東福寺文書」によればこの日、六波羅探題は矢部七郎らに東福寺領古海郷の保全を命じた。これが矢部氏の史料上、初めて見る文献であり、それから大きな影響を持つ国人に成長していたと言われる。

南北朝時代

建武2年(1335年)、足利尊氏後醍醐天皇側に対して背くと、矢部氏は波多野氏などと尊氏側にくみした。その後、尊氏方の山名時氏守護に任じられると他の国人と共にこれに従った。

この他にも、暦応3年(1340年)には(矢部綸綱)による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があったことがわかっている。

室町時代

室町時代の末期にかけて矢部氏は幕府奉公衆の地位を獲得、応仁の乱が始まると山名軍の一翼を担って参陣した。

当時の当主・矢部定利文明元年(1469年)に高僧・天隠龍沢を迎え、文明13年(1481年)には伊勢貞宗と対面、「宗」の字を与えられて「宗定」と改名するなど中央と積極的に交流した。一方で文明11年(1479年)に起こった「毛利次郎の乱」に加わり、因幡毛利氏と徒党を組んで山名氏に対抗、自立する動きも見せた。長享元年(1489年)、毛利次郎の乱が再び起こると宗定(定利)は山名政実を擁立、毛利貞元と再び徒党を組んで山名豊時と対抗したが、延徳元年(1489年11月、豊時軍に囲まれた宗定らは矢部館において自刃した。

この毛利次郎の乱に関して延徳元年9月に(徳丸河原合戦)が引き起こされた際、矢部氏の庶流である(北川氏)が離反、矢部氏らの敗北を招いた。北川氏はこの後、山名氏の家臣として重用された。

戦国時代から安土桃山時代

永禄初年を目安に矢部氏は本家筋が復活、次郎の乱から続く因幡毛利氏との親密な関係を基に但馬山名氏に反抗、度々、南因幡周辺で合戦を行った。また、矢部氏は天文年間に因幡毛利本家が山崎毛利氏を謀略を以って滅亡させたときにもこれに加担している。

永禄12年(1569年5月尼子勝久山中幸盛が尼子再興を目指して挙兵、因幡へ侵攻した。矢部氏はこの時、尼子氏にくみして、尼子軍を駐屯させ、同年11月には(毛利信濃守)らと鳥取城武田高信を攻撃した。

天正年間になり吉川元春が因幡に進出すると矢部氏はこれに従った。天正2年(1574年)、毛利氏が因幡から退くと尼子氏は再び侵入、天正3年(1575年6月播磨国を目につけた山中幸盛は謀略をもって城主の矢部氏を生け捕り、落城させ、後に帰農し末裔も生存している。

脚注


  1. 現在の島根
  2. この様子は京都から氷ノ山を越え、山陰地方を通って鹿児島へ戻る途中であった島津家久によって目撃されている。「中書家久公御上京日記」の天正3年6月16日の条によれば「謀略を以生取」とあり城主名こそ書かれていないものの、この城主某は矢部氏であると見られている。

参考文献

  • 高橋正弘著『因伯の戦国城郭 通史編』
  • 『島根県管内因幡国』永続的識別子: info:ndljp/pid/992246; タイトル: 島根県管内因幡国地誌略; 著者: 清水清太郎 著; 出版者: 清水清太郎; 出版年月日: 1880; 請求記号: 291.72-

関連項目

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。