略歴
教職を務める父と住職の娘である母との間にできた私生児として福井県伊那郡殿下村に生まれる[1]。父が台湾の宮司になったため3歳から台湾で過ごす。1911年に一旦日本に戻ったが、再び台湾に戻り、台中の看護婦養成所を卒業して1916年から看護婦として台中病院に務める[1]。台中高等女学校中退。1917年、17歳で台中駅助役(のちに旧城駅長)と結婚。相手は13歳年上で、内縁の妻がいた[1]。1921年に離婚し、大阪の祖父母の元で暮らす[1]。
タイピスト、事務員を経て、1925年に大阪毎日新聞の記者となる[1]。その頃、正岡容の愛人となって心中を図るも未遂に終わる。のち武者小路実篤と知り合って、1927年にその愛人となる。武者小路の指導で小説家を志し、1927年に武者小路が主宰する『大調和』8月号で『駅長の若き妻』を発表したのち、武者小路や中村地平との恋愛をもとにした処女作『小魚の心』を発表[1]。長谷川時雨の『女人藝術』に参加。武者小路が当時開業した神田猿若町の美術店「日向堂」を手伝いながら、文芸雑誌に作品を発表しつづける[1]。
武者小路と別れた後、中村地平や菊池寛などと恋愛する。1939年に中村とともに18年ぶりに台湾を訪れ、台南に住む家族と久しぶりの再会を果たす[1]。1941年には長谷川時雨、円地文子らと中国・広東へ日本軍の慰問にも出向いている[1]。1942年に中山義秀と結婚したが、1946年に離婚。この間、中国戦地の慰問団に参加して陸軍中尉の佐藤賢了と恋愛する。
戦後は娯楽月刊誌『鏡』を刊行したが3号で廃刊。また、読売新聞で「身の上相談」を担当し、被爆少女の教護に尽した。1953年に渡欧し、エリザベス2世の戴冠式と国際ペンクラブ大会にそれぞれ出席する。
晩年は癌に苦しみ、死の直前にキリスト教の洗礼を受けた。1955年6月29日、肺癌のため東京大学医学部附属病院小石川分院で死去[2]。通夜の席にはかつての夫、中山義秀が参列している。
真杉静枝を題材にした作品
その他
生年は1905年説(吉屋信子など)もあり。墓地は北鎌倉の東慶寺にある。
著書
- 『小魚の心』(1938年)竹村書房 序:坂口安吾
- 『草履を抱く女』(1939年)春陽堂
- 『ひなどり』(1939年)竹村書房
- 『その後の幸福』(1940年)昭森社
- 『万葉をとめ』(1940年)人文書院
- 『愛情の門』(1940年)国際女性社
- 『歴史物語薄幸の姫宮』(1940年)画:高畠華宵、装丁:蕗谷虹児
- 『甲斐なき羽撃き』(1940年)協力出版社
- 『ことづけ』(1941年)新潮社
- 『南方紀行』(1941年)昭和書房
- 『天日爽やかに』(1941年)墨水書房
- 『凱歌』(1942年)報国社
- 『三つの誓ひ』(1942年)むらさき出版部
- 『鹿鳴館以後』(1942年)実業之日本社
- 『妻』(1942年)博文館
- 『母と妻』(1943年)全国書房
- 『帰休三日間』(1943年)秩父書房
- 『思はれ人』(1946年)丹頂書房
- 『鏡と鬘』(1947年)前田出版社
- 『愛情の門』(1948年) 国際女性社
- 『花怨』(1948年) 六興出版部
- 『美くしい人』 (1948年) 京都印書館
- 『後宮の人』 (1948年) 九州書房
- 『仇ごよみ』(1948年)鏡書房
- 『夜会服の乙女』(1949年)
- 『嵐の中の姉妹』(1949年)偕成社
- 『小説人生案内』(1951年)四季社
訳書
- ヨーロッパの横顔(1950年)(サム・ウェルズ)著 ジープ社
(原書:Sam Welles, "Profile of Europe", herper & Brothers New York, 1948)
脚注
外部リンク
- 真杉静枝著作集 - 近代デジタルライブラリー