経歴
従五位下に叙爵後、延暦18年(799年)(下野介)に任ぜられる。その後、左衛士佐として京官に遷り、延暦25年(806年)(美濃守)を兼ねている。同年の桓武天皇の崩御に伴う平城天皇への代替わりに際しては、桓武天皇の葬儀における作路司や[1]、斎内親王を迎えるための伊勢神宮への使者などを務めた[2]。
平城朝では鎮守将軍を務めたほか、大同3年(808年)6月には陸奥介を兼ねるなど蝦夷征討に従事した。しかし、教俊は鎮守将軍の官職にありながら鎮守府(胆沢城に所在)に詰めずに、遠く離れた(陸奥国府)(多賀城に所在)に常在していたことから、非常事態発生時に適切に対応できないとして、改善すべき旨の勅令を受けている[3]。
その後も、大同4年(809年)下野守、弘仁3年(812年)出羽守と、東国の地方官を歴任した。またこの間、時期は不明ながら従五位上に昇叙されている。
官歴
『六国史』による。