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白いバラ

白いバラ(しろいバラ、Die Weiße Rose)は、第二次世界大戦中のドイツにおいて行われた非暴力主義反ナチ運動ミュンヘンの大学生であったメンバーは1942年から1943年にかけて6種類のビラを作成した。その後グループはゲシュタポにより逮捕され、首謀者とされるハンス・ショルほか5名がギロチンで処刑されたため、7種類目の印刷がおこなわれることはなかった。彼らの活動を描いた映画が戦後何度かドイツで作られ、反ナチ抵抗運動として、国際的に知られている。

1983年に西ドイツで発行された、白いバラの40周年記念切手

日本では白バラあるいは白バラ抵抗運動などとも呼ばれる。

活動と経過

背景

白いバラはミュンヘン大学の学生で構成されていた。ハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショルを筆頭に、他にもクリストフ・プロープストヴィリー・グラーフアレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授らが活動に参加していた。

白いバラに参加した学生はフランス侵攻東部戦線に従軍したドイツ陸軍の帰還兵であった。ドイツ青年運動に影響を受けたと考えられており、ハンス・ショルとプロープストはそのメンバーである。彼らは、ポーランドのユダヤ人居住地区の状況や東部戦線における惨状を目にして、この戦争を受け入れることができず、さらにスターリングラードの戦いにおけるドイツ国防軍の敗退によりドイツの敗北を予感した。彼らはナチスのヨーロッパ支配を否定し、キリスト教の忍耐と正義を信奉していた。聖書老子アリストテレスノヴァーリスゲーテシラーなどからの引用が見られ、ドイツの知識階級の典型を表している。リーフレットは当初バイエルンオーストリアなど南ドイツを拠点に配布された。これは反全体主義のメッセージは南部においてより受け入れられやすいと考えていたためである。

グループは、1942年6月から7月にかけて4種類のビラを作成し、郵便などで配布した。1943年に入ると、1月に5種類目のビラ「全ドイツ人への訴え」を作成して各地で配布した。さらに、スターリングラード攻防戦における1月末のドイツ軍降伏を受け、2月に6種類目のビラ「学友へ」が作成された。いずれのビラも平易なドイツ語で書かれており、グループが広くドイツ国民に訴えかけようとしていたことが分かる。

逮捕と処刑

6種類目のビラは、2月14日と16日の夜にミュンヘン市内でまかれたが、まだかなり残っていた。そこで、グループは、これをミュンヘン大学でまくことにした。2月18日の11時前に、ショル兄妹は大学へ行き、まだ閉まっている講義室の前と廊下にビラを置き、最後に残ったビラを持って3階に行き、ゾフィーが吹き抜けにばらまいた。この時彼女はナチス党員である大学職員(ヤーコプ・シュミット)(ドイツ語版)に発見され、兄ハンスとともにその場で拘束されてゲシュタポに引き渡された。奇しくも、この日はヨーゼフ・ゲッベルスによる総力戦演説が行われていた。 翌日にはプロープストも逮捕され、残っている尋問記録から、ショル兄妹が2人で責任をとり、プロープストを守ろうとしたことが分かっている。

ショル兄妹とプロープストの裁判は2月22日に行われた。彼らは、ローラント・フライスラーが裁判長を務める人民法廷(ドイツ民族裁判所)で反逆罪により有罪となり、死刑の判決を受けた。一方的に裁かれたと言ってよく、弁護人に至っては、「人間が、かくのごとき恥知らずな行為を行うとはとても信じがたい。よって、被告人たちは人間以下のクズである。どんな判決、裁定が下されようとも、それに反論できる立場にない。」と言う有様だった。

被告はビラの中で、戦時において武器生産のサボタージュを呼びかけ、わが民族の国家社会主義的生活を打倒し、敗北主義を宣伝し、われらの総統を口汚く罵り、国家の敵に利する行いをし、我々の防衛力を弱めんとした。それゆえに死刑に処せられる。・・・もし死刑以外の扱いをすれば、連鎖の始まりとなり、その結末はかつて-1918年(の第一次世界大戦敗北)-と同じになる。それゆえ戦う民族と国家を守るべき人民法廷には、唯一の刑、すなわち死刑しか選択はありえない。・・・わが民族に対する裏切りにより、被告らはその自らの市民権を永遠に失う。 — 1943年2月22日、「白バラ」メンバーに対する判決理由

その後、シュモレル、グラーフとフーバー教授も逮捕されて4月19日に死刑判決が下り、シュモレルとフーバー教授は7月13日に、グラーフは10月12日に処刑された。他にも、ビラの印刷や配布を助けたり、プロープストの未亡人・孤児へ援助を与えたりした者たちが逮捕され、6か月から10年の懲役に処せられた。

その後

 
ミュンヘン大学前の路面に作られた、ビラを模した記念碑

戦後に白いバラの活動が知られるようになったきっかけは、作曲家のカール・オルフが連合国の尋問に対して、自身がグループの創設者の一人であったと述べたことに始まる。[要出典] ドキュメンタリー ”O Fortuna”(監督:(トニー・パーマー)(英語版))によると、オルフはフーバー教授の友人ではあったが、政治に関心を持つことはなく、白いバラ活動には関わりを持たなかったとフーバー教授の妻は語る。フーバーが逮捕されたことを知ると、フーバーとの関わりを絶ったともいう[1][2]

一方、白いバラのメンバーを裁いた人民法廷のローラント・フライスラーは、1945年2月3日のアメリカ軍によるベルリン空襲によって死亡した。 ショル兄妹を取り押さえた大学職員のヤーコプ・シュミットは、3,000マルクの報奨金を与えられて昇任していたが、ドイツの敗戦後はアメリカ軍に逮捕されて5年の刑を受け、公職から追放された。シュミットは服役中に「職務を果たしただけだ」と主張して恩赦を2回嘆願したが認められず、刑期を終えて1951年に出所した。

戦後のドイツでは、白いバラの活動、なかでもショル兄妹に、惜しみない賞賛が与えられている。ミュンヘン大学の大講堂がおかれている一角は、兄妹にちなんだ "Geschwister-Scholl-Platz"(ショル兄妹広場)、隣接する広場は "Professor-Huber-Platz"(フーバー教授広場)と名付けられている。1968年にミュンヘン大学に設置された政治学の研究所は、Geschwister-Scholl研究所と命名された。また、1980年からは、バイエルン州出版協会とミュンヘン市がショル兄妹賞を設立し、兄妹の考えであった自由、市民、道徳、知的な勇気などに関連する出版物を表彰している。

ミュンヘンのみならずドイツ各地にも、ショル兄妹の名が付けられた広場や通りがある。また、ドイツ国内の学校で最も多い校名は "Geschwister-Scholl-Schule"(ショル兄妹学校)である。

メンバーの1人で、シュモレルとともに逮捕された(トラウテ・ラフレンツ)(英語版)は裁判直前の1945年4月に収容所が連合軍によって解放され、一命を取り留めている。彼女は戦後アメリカに渡って医師となり、2023年3月6日に死去するまで、103歳という大変な長寿を全うした。彼女は2019年、100歳の時にドイツ連邦共和国功労勲章を拝受している。彼女の死を以てメンバー全員がこの世を去ったとされる[3]

文献

当事者の執筆

  • ハンス・ショル、ゾフィー・ショル 著、山下公子 訳、(インゲ・イェンス) 編『白バラの声 : ショル兄妹の手紙』新曜社、1985年。 

その他

  • インゲ・ショル 著、内垣啓一 訳『白バラは散らず : ドイツの良心ショル兄妹』未來社、1964年。ISBN (978-4624110130)。 
  • (C・ペトリ) 著、関楠生 訳『白バラ抵抗運動の記録 : 処刑される学生たち』未來社、1971年。ISBN (978-4624110796)。 
  • (クラウス・フィールハーバー他) 編『権力と良心 : ヴィリー・グラーフと白バラ』未來社、1973年。 
  • (ヘルマン・フィンケ) 著、若林ひとみ 訳『ゾフィー21歳 : ヒトラーに抗した白いバラ』草風館、1982年。 
  • ヘルマン・フィンケ 著、若林ひとみ 訳『白バラが紅く散るとき : ヒトラーに抗したゾフィー21歳』講談社、1986年。ISBN (978-4061838420)。 (『ゾフィー21歳』 (草風館1982年刊) の改題改訂版)
  • 山下公子『ミュンヒェンの白いバラ : ヒトラーに抗した若者たち』筑摩書房、1988年。ISBN (978-4480854575)。 
  • 関楠生『白バラ : 反ナチ抵抗運動の学生たち』清水書院、1995年。ISBN (978-4389411244)。 
  • (M.C.シュナイダー)、(W.ズュース) 著、浅見昇吾 訳『白バラを生きる : ナチに抗った七人の生涯』未知谷、1995年。ISBN (978-4915841248)。 
  • (フレート・ブライナースドルファー) 著、瀬川裕司、(渡辺徳美) 訳『白バラの祈り : ゾフィー・ショル、最期の日々(オリジナル・シナリオ)』未來社、2006年。ISBN (4-624-70087-2)。 
  • フレート・ブライナースドルファー 編、石田勇治、(田中美由紀) 訳『「白バラ」尋問調書 : 『白バラの祈り』資料集』未來社、2007年。ISBN (978-4-624-11196-0)。 
  • 早乙女勝元『「白バラ」を忘れない―反戦ビラの過去と今と』(草の根出版会)、2009年。ISBN (978-4876482542)。 

映画

白いバラをモデル、モチーフにした作品

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ Jessica Duchen (2008年12月4日). “”. The Independent. 2018年3月23日閲覧。
  2. ^ Richard Morrison (2008年12月19日). “”. Times Online. 2018年3月23日閲覧。
  3. ^ “Widerstandskampf: Letzte Überlebende der Weißen Rose ist tot” (ドイツ語). Hamburger Abendblatt. (2023年3月23日). https://www.abendblatt.de/hamburg/article237852209/Letzte-Ueberlebende-der-Weissen-Rose-ist-tot.html 2023年4月12日閲覧。 

関連項目

外部リンク

リソースサイト

  • The White Rose - Die Weisse Rose(英語)
  • White Rose International(英語)
  • Weiße Rose Stiftung e.V.(ドイツ語。ミュンヘン大学、白バラ記念館)
  • White Rose links(英語。ドイツ語のリンク先あり)

映画

  • Internet Movie Database (IMDb): Die Weiße Rose(英語)
  • Internet Movie Database (IMDb): Sophie Scholl - Die letzten Tage(英語)
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