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畠山国清

畠山 国清(はたけやま くにきよ)は、南北朝時代から室町時代武将守護大名である。足利氏支流畠山氏出身。和泉紀伊守護を経て関東管領となる。伊豆守護家の祖。父は畠山家国。弟に義深など。子に義清、(義晴)。

 
畠山 国清
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 不詳
死没 正平17年/貞治元年(1362年)?
改名 国清、道誓
官位 左近将監阿波守左京大夫修理大夫
幕府 室町幕府関東管領評定奉行
和泉紀伊河内伊豆武蔵守護
氏族 足利氏畠山氏
父母 父:畠山家国
兄弟 国清義深、(義熈)、(清義)、(国頼)、(義輝)
(清渓尼)(足利基氏室)
義清、(義晴)
(テンプレートを表示)
金山城が築かれた伊豆の国市城山
修善寺城が築かれた伊豆市城山

生涯

足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕、建武の新政から離反した後の南朝との戦いで和泉、次いで紀伊の守護となる。後に河内の守護にもなり、畿内に勢力を広げた。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏の弟である足利直義に属し、政争に敗れた直義が京都を脱出して吉野の南朝に属すると国清も従うが、後に尊氏方に付き、武蔵野合戦に参戦している。

延元元年/建武3年(1336年)9月1日、南朝の武将岸和田治氏と戦い、八木城(現在の岸和田市八木地区?)まで撤退させる(『岸和田治氏軍忠状』[1])。しかし、7日、天王寺から中院右少将(右中将の中院定平?)と楠木一族の(橋本正茂)らが治氏の援軍に来ると、治氏は城中から撃って出たため、国清は挟み撃ちされた格好になり、(蕎原城)(大阪府貝塚市蕎原)まで撤退して籠城、しかしこれも落とされて敗走する(『岸和田治氏軍忠状』[1])。

正平8年/文和2年(1353年)、尊氏が関東地方の統治のために設置した次男の鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、伊豆の守護となった。同年、鎌倉府武蔵入間郡入間川に移し(入間川御陣)、遠縁である秩父氏武蔵平一揆を率い、武蔵守護にもなり権勢を振るった。正平13年/延文3年(1358年)に南朝方の新田義興を謀殺した。

正平14年/延文4年(1359年)、2代将軍足利義詮からの援軍要請を受け、関西に攻め上った。しかし陣中で仁木義長と対立、幕府執事(管領)の細川清氏と協力し、義長を政治から失脚させる。しかし正平15年/延文5年(1360年)には、今度は清氏が義詮と対立し失脚することになり、政治的に苦しい立場となった。国清は軍勢と共に関東へ無断で帰還したが、清氏の投降で攻勢に出た南朝により京都が一時失陥する事態を招くことになり、これにより国清はますます面目を失うことになった。

正平16年/康安元年(1361年)11月、かつての直義派の武将達から基氏に対して国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚し領国の伊豆へ逃れた。国清は伊豆の豪族達を糾合することで基氏に抵抗しようとしたが、伊豆の豪族達の協力は得られず、三津城金山城を落とされるなど敗戦を繰り返し、最後の牙城として籠城した修禅寺城も落とされ、基氏に降伏した。その後の国清の消息は定かではなく、降伏時に斬殺されたとも流浪の末に大和で窮死したともいう[2]。「(津川本畠山系図)」は正平17年/貞治元年(1362年)、(畠山家記)は正平19年/貞治3年(1364年)に没したと伝えている。

国清の失脚・叛乱によって畠山氏は一時没落したが、後に弟の義深が義詮に許されて越前守護に任命され、以降の畠山氏の嫡流は義深の系統に移った。とはいえ河内国の守護に任命されたのは国清が最初であり、河内畠山氏の実質的な祖は国清であるといえる。

脚注

参考文献

  • 東京帝国文科大学史料編纂掛 編「延元元年五月二十五日条 和田文書」『大日本史料 第六編之三』東京帝国大学、1903年、416–418頁。doi:10.11501/782841。(NDLJP):782841https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782841/235 
  • 安田元久 編『鎌倉・室町人名辞典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN (4-404-01757-X)。 
  • 田辺久子『関東公方足利氏四代』吉川弘文館、2002年9月。ISBN (4-642-07789-8)。 

関連項目

先代
畠山家国
河内畠山氏
畠山国清
次代
畠山義深
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