出自
(田辺史氏)については、『日本書紀』巻第十四に雄略天皇9年7月の話として、誉田山古墳(応神天皇陵)にまつわる田辺伯孫の物語があげられており、同様の物語が『新撰姓氏録』「左京皇別」にも現れている。『弘仁私記序』にも、田辺史氏が皇別の上毛野公と同祖とすることが述べられているが、この観念が生まれたのは、後述の天平勝宝2年(3月の記述によるのではないか、とされており、田辺史は本来は渡来系氏族ではなかったのかという説もある[1]。
経歴
聖武朝後期の天平17年(745年)路野上・太徳足・鴨石角・楢原東人らとともに、正六位上より外従五位下に叙せられる。同年9月4日、秦前大魚の後任の参河守に任じられている。
以降の記録は存在していないが、田辺史氏は、天平勝宝2年(750年)3月、田辺難波らが上毛野君の氏姓を与えられており、この時まで健在ならば上毛野氏を名乗っていたことになる。
官歴
『続日本紀』による。
脚注
- ^ 岩波書店『続日本紀』1補注1 - 一三五
参考文献
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12 岩波書店、1989年
- 『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)・(中)』講談社学術文庫、1992年
- 『日本古代人名辞典』4 - p1017、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1959年