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田辺難波

田辺 難波(たなべ の なにわ、生没年不詳)は、奈良時代貴族氏姓は(田辺史)のち上毛野君官位従五位上中衛員外少将

経歴

海道の蝦夷討伐

聖武朝初頭の神亀元年(724年)3月に海道の蝦夷が反乱を起こし、陸奥大掾佐伯児屋麻呂を殺害する[1]朝廷式部卿藤原宇合を持節大将軍に、宮内大輔高橋安麻呂を副将軍に任じ、判官8人・主典8人を編成して、海道の蝦夷を征討させた[2]。この遠征軍は11月に近江国に派遣された内舎人により慰労され[3]、同月帰還[4]。翌神亀2年(725年)閏正月に聖武天皇はを出し、蝦夷征討に従事した1,696人に勲位を授け、難波は後部王起紀牟良自坂本宇頭麻佐丸子大国らを含む9人とともに勳六等・賜田2町を与えられた(この時の位階は正八位上)。

新道開鑿

天平9年(737年)正月に陸奥按察使大野東人の言上を容れて、男勝村を経由する陸奥国から出羽柵への直行路を貫通させるべく、兵部卿藤原麻呂が持節大使に任じられ、副使・佐伯豊人常陸守・坂本宇頭麻佐らに詔して、陸奥国に進発させた[5]。その後、直通路開鑿の過程で、2月25日に大野東人が多賀柵より出発し、さらに3月1日に東人は紀牟良自と騎兵196人、鎮兵499人、陸奥国の兵5000人、帰服した夷狄249人を率いて色麻柵より出発し、その日のうちに出羽国大室駅に到着した。この時、(出羽守)であった難波は部内の兵500人と帰服した蝦狄140人を率いて、駅にて待機していた。3日後に、難波は東人の軍と合流して賊地に入り、道を開墾しつつ進むが、賊地は雪深くが手に入れにくかったため引き返すことになり、雪解けを待って行軍し直すことになった。3月11日に東人は多賀柵に帰還した。

4月4日に遠征軍は賊地の比羅保許(ひらほこ)山に駐屯した。これよりも先に難波の書状が届き、「雄勝村の俘囚の長ら3人がやってきて、拝首して言うには、『官軍が自分たちの村に入ろうとしているので、不安に耐えられず、降服するためにやってきた』」とあった。東人は夷狄の言を信じられないと言ったが、難波は「軍を起こして賊地に入るのは、俘狄を教え諭し、城柵を築き、民を居住させるためです。必ずしも兵を行使して、帰服するものをそこない殺すためではありません、もしもその請願を認めず、強引に武力で押さえて進むとしたら、俘囚たちは恐れ恨んで山野に遁走し、労が多いわりには功が少なく、上策ではないでしょう。今回は官軍の威を示してこの地より帰り、その後で難波が帰順の有利なころを諭し、寛大な恩恵によって彼らを懐かせましょう。そうすれば城郭も守りやすく、人民も永く安らかになるでしょう」と言った。東人はこの難波の言を聞き入れ、また兵糧のための耕作が大雪のために不可能になったことを鑑み、また新道が完成し、地形も視察したので、自分が出向かなくとも容易に平定できると、麻呂に進言した[6]

その後

天平11年(739年従五位下、天平16年(744年)には内位の従五位下に叙せられる。その後、孝謙朝にて中衛員外少将を務め、天平勝宝2年(750年)一族とともに田辺史から上毛野君に改姓した。天平勝宝6年(754年)従五位上に至る。

官歴

続日本紀』による。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『続日本紀』神亀元年3月25日条
  2. ^ 『続日本紀』神亀元年4月7日条
  3. ^ 『続日本紀』神亀元年11月15日条
  4. ^ 『続日本紀』神亀元年11月29日条
  5. ^ 『続日本紀』天平9年正月23日条
  6. ^ 『続日本紀』天平9年4月14日条

参考文献

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