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田浦町 (小松島市)

日本 > 徳島県 > 小松島市 > 田浦町

田浦町(たうらちょう)は、徳島県小松島市町名郵便番号は773-0012。

田浦町
田浦町の位置
田浦町
田浦町の位置
北緯33度59分50秒 東経134度33分19秒 / 北緯33.99722度 東経134.55528度 / 33.99722; 134.55528
日本
都道府県 徳島県
市町村 小松島市
地区 小松島地区
人口
2022年(令和4年)7月31日現在)[1]
 • 合計 1,814人
等時帯 (JST)
郵便番号
773-0012[2]
市外局番 0885[3]
ナンバープレート 徳島

地理

小松島市の北西部に位置する。西は北流する勝浦川によって徳島市と相対し、南は田浦山地によって徳島市飯谷町と境をなし、また芝生川によって東は新居見町と接している。北は前原町に、北東は日開野町に接続している。

徳島県道33号小松島佐那河内線が中央部を東西に横断して日開野町内で徳島南バイパス国道55号)と結び、県道33号線に沿って街村を形成し商店が点在している。

田浦町は農村地域で農村集落が点在し、主として稲作を中心として前山丘陵の傾斜面にミカンが栽培されている。前山古墳は竪穴式古墳で、4世紀初めに造営されたものである。この地域の「たたら音頭」は県無形民俗文化財である。

河川

小字

  • 泉川
  • 今里
  • 岩金
  • 大栗
  • 北原
  • 子安
  • 近里
  • 中西
  • 中村
  • 西原
  • 原田
  • 東内
  • 広貞
  • 前山
  • 神子ノ内
  • 妙蓮
  • 本村
  • 矢三

歴史

田浦村

田浦村は江戸期から町村制が施行された1889年明治22年)にかけて勝浦郡に存在した村。江戸期は田野浦村とも称した。徳島藩領。

勝浦川流域はたびたび堤防が結界して洪水に襲われ、天保14年の洪水は七夕水と呼ばれ、当地の堤2ヵ所が切れて、流失家屋15・流失人馬30余であった。嘉永2年のものは阿呆水といわれ、当村と前原村の堤が切れて田畑が磧と化したといい、慶応2年には寅年の大水と呼ばれる洪水で大きな被害を受けている。

田浦城主であった宍草玄仲は蜂須賀氏阿波国へ入国後、国後浪人となり、蜂須賀氏に従って入国した本木右衛門を養子とした。本木家は宍草家のあと、元和年間から政所(庄屋)を勤め、享保初年頃、林家を経て享保3年に荒川家の後、武市家が庄屋となっている。

明治4年に徳島県、同年に名東県、明治9年に高知県を経て明治13年に再び徳島県に所属。

田浦

田浦は明治22年から昭和32年にかけて存在した大字名。はじめは小松島村、明治40年に小松島町、昭和26年からは小松島市の大字となる。

明治23年に松島尋常小学校児安分教場が開校。明治25年に現在の児安小学校の前身である児安尋常小学校として独立開校した。大正期から昭和期にかけて養蚕とともにわら加工品の生産も行われた。

現在

昭和32年より現在の町名となる。昭和57年の耕地面積は110.5haのうち田73.5ha、畑3ha、果樹園33ha、筍1ha。産業の中心は農業で、米作のほかは野菜・イチゴ・温州ミカンを栽培、畜産・養魚などの複合経営が行われている。

世帯数と人口

2022年(令和4年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

町丁 世帯数 人口
田浦町 605世帯 1,348人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]

交通

道路

都道府県道

施設

公共施設
神社・寺院

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b “市の人口”. 小松島市 (2021年7月31日). 2022年8月19日閲覧。
  2. ^ “郵便番号”. 日本郵便. 2022年8月19日閲覧。
  3. ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2022年8月19日閲覧。
  4. ^ “小松島市小学校及び中学校の児童及び生徒の就学に関する学区制についての規則”. 小松島市. 2022年8月19日閲覧。

参考文献

外部リンク

  • 小松島市ホームページ
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