この記事の主題はウィキペディアにおける(独立記事作成の目安)を満たしていないおそれがあります。(2020年12月) |
経歴・人物
鶴崎工業高校では1981年夏の甲子園県予選の2回戦において、三重高校に敗退し、甲子園への出場を実現することができなかった。高校卒業後は、電電近畿に入社した。
電電近畿において、1984年のドラフト会議で近鉄バファローズから6位指名を受けたが、入団を拒否し、チームに残留した[1]。その後、社会人野球でプレーし続け、1986年の都市対抗野球から補強選手として、4年連続出場した[2]。(第57回都市対抗野球大会と第59回都市対抗野球大会[3]と第60回都市対抗野球大会[4]では大阪ガスの補強選手として、出場し、第58回都市対抗野球大会では住友金属の補強選手として、出場した[5]。)