田中 茂樹(たなか しげき、1931年4月7日 - 2022年10月4日)は、日本の元マラソン選手、日本人初のボストンマラソン優勝者[1][2][3][4]。広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)出身[5]。身長162cm[6]。
来歴
中国山地山間の農村・敷信村生まれ。14歳の時、国民学校での朝礼中、130キロ離れた広島市に投下された原爆の閃光を見る[4]。まもなく大やけどを負った被爆者が、田中の村にもたくさん運び込まれ「アメリカは人殺しの国だ」と憎悪を募らせた[4]。学校までの4キロの砂利道を走って通ったことがランナーの原点。広島県比婆西高等学校(現・広島県立庄原実業高等学校、庄原格致高等学校)在学中の1949年から中国駅伝で三年連続区間賞を獲得するなどで頭角を現し[1][2][3]、各地のロードレースで活躍[3][7][8]。
1950年、岡部平太が戦後のマラソン界再建のため、金栗四三に提案してつくった「オリンピックマラソンに優勝する会」の最初のメンバーとなる[9]。同年、広島で行われた第4回朝日マラソン(福岡国際マラソンの前身)に初出場し、高校生ながら10位[9]。1951年、海外派遣選手の予選会になった山口の大会で2時間28分16秒の戦後の世界最高記録をマーク[7]、19歳で日本が初参加したボストンマラソン代表の一人となった[10]。日本は戦後初のロンドンオリンピックには出場が許されず、世界的な規模の大会に出るのはボストンマラソンが初めてで、日本に対する関心は薄かった。マラソンチーム監督の岡部平太は「民族の誇りを復活させるには、アメリカで国民的行事であるボストンマラソンを制するのが1番」と考えた。ボストンマラソンは、当時オリンピックに次ぐ権威があり[2]、第二次世界大戦以来、日本人アスリートに開かれた最初の国際スポーツイベントの1つだった。田中は母子家庭で貧乏のため、出場を断ったが[3]、高校の校長が中心となって費用を工面し、「アメリカに負けるんじゃないぞ!」という地元の人たちの金銭的後押しもあって出場を決めた[3][11]。田中もアメリカはまだ敵国のイメージを持っていた。
ボストン到着後、国防総省の関係者から連行され尋問を受ける。多くの被爆写真を見せられ「これは本当なのか」と質問された。翌日のアメリカの新聞は田中を「アトムボーイ」、全滅したと思われた広島から選手が出場する、と大きく書きたてた[1][2][4]。当時の多くのアメリカ人の日本に対する認識はこの程度だった。田中の自己ベストは前3回の優勝を凌ぐもので[4]、アメリカのメディアからも注目を浴びたが[4]、日本人ランナーは主に平らな地面で訓練していたため、ボストンの丘に不向きなのではという前評判だった[4]。
4月19日レース当日、田中は「原爆で負けたと言われたくない」と奮起し、2位に3分以上の差をつける圧勝で[4]、当時の歴代3位にあたる2時間27分45秒で見事優勝を飾った[1]。また他の日本人選手も3人も入賞[1][4]。田中は広島の山奥育ちで原爆と関係ないが[12]「19歳の原爆ボーイに栄冠」「敗戦国の日本が戦勝国に乗り込んでの勝利」などと田中優勝を伝えるビッグ・ニュースが世界を駆け巡った。地元ボストンの新聞は、軒並み「JAP WINS」の軽蔑的な見出しで溢れた[4]。敗戦で肩身の狭い思いをしていたアメリカ在住の日本人は涙を流して喜び、敗戦以来アメリカの地で「おれは日本人だ」と心の底から叫ぶことが出来たのは、この時が初めてであったろうといわれる。その夜田中は黒人達にバーに連れ出され「お前は凄い。俺達は白人には勝てない」祝福された。田中の優勝は日本人としてベルリンオリンピックで優勝した孫基禎を除けば、日本人選手の(主要マラソン)優勝第1号であり[13]、戦後の日本陸上界の空白を一気に埋めた優勝で、日本人として戦後の国際舞台での初めての優勝であったため、敗戦に打ちひしがれていた日本国民を大いに勇気づけ国民的英雄ともなった[2][3][14][15]。田中の勝利は日本人アスリートの成功の礎となり[4]、次世代の日本人ランナーに大きな影響を与えた[4]。多くの若い日本人ランナーがボストンマラソンをまず目標に置くようになり[4]、日本マラソンの国際舞台進出に先鞭をつけた[7]。帰国後広島駅で見つかり、無理やり木炭トラックに乗せられ故郷の敷信村まで凱旋パレードとなった。沿道は小旗を振る人達で溢れた。連日の歓迎会は地獄だったという[2]。
日本の戦後オリンピック復帰となるヘルシンキオリンピックが翌年に迫り、オリンピックも勝てる、と言う周囲の重圧が田中を苦しめた。のちに「円谷幸吉の気持が痛いほど分かるよ」と語った。日本大学に進学し箱根駅伝では2年時に5区で区間1位[6]。しかし膝に軟骨が出る故障を起こし、回復が遅れ練習不足のまま1952年、ヘルシンキ五輪の代表選考レースとなった毎日マラソン(現・びわこ毎日マラソン)に出場したが惨敗。オリンピック出場は成らず[2]。故障の悪化で大学時代に競技生活を終え、ボストンマラソン優勝を唯一の勲章に現役を退いた。
その後は西武百貨店などに勤務し、日本陸上競技連盟理事、全国マラソン連盟会長などを務め[9]、1999年には地域ランナーを育てる陸上クラブ「東京ハリアーズ」を旗揚げするなどマラソンの普及に尽力し[2]、2022年10月4日、91歳で心不全で死去[16]。
ボストンマラソンの大会本部が出している公式歴代優勝者名簿の欄には「Hioroshima Japan」と田中一人だけが国名以外に出身地まで記載されている。
逸話
脚注
- ^ a b c d e (Internet Archive). 毎日新聞 (毎日新聞社). (2022年10月6日). オリジナルの2022年10月6日時点におけるアーカイブ。2022年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 小田邦彦 (2022年10月7日). . 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). オリジナルの=2022年10月7日時点におけるアーカイブ。 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f . 読売新聞オンライン (読売新聞社). (2013年10月27日). オリジナルの=2013年11月9日時点におけるアーカイブ。 2022年10月7日閲覧。. 読売新聞オンライン (読売新聞社). (2022年10月5日). オリジナルの2022年10月5日時点におけるアーカイブ。 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m Jonathan Gault (2017年4月10日). “What a Story - In 1945 He Saw The First Atomic Bomb Go Off in Hiroshima, In 1951 He Won the Boston Marathon” (英語). LetsRun.com. 2022–10–07閲覧。
- ^ . 中国新聞 (中国新聞社). (2022年10月6日). オリジナルの2022年10月6日時点におけるアーカイブ。 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b . 産経デジタル (産業経済新聞社). (2022年10月6日). オリジナルの2022年10月6日時点におけるアーカイブ。 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b c 『広島スポーツ100年』、中国新聞社、1979年、206-207頁
- ^ 河野徳男『広島スポーツ史』、財団法人広島県体育協会、1984年、211頁
- ^ a b c 田中耕 (2021年12月6日). “”. 西日本新聞社. 2021年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月8日閲覧。
- ^ (Archive)
- ^ (Archive)
- ^ 高橋進『マラソン百話』ベースボールマガジン社、1997年、166-167頁 (ISBN 978-4583034430)
- ^ (Archive)
- ^ 『激動のスポーツ史(7) 陸上競技』ベースボール・マガジン社、1989年、68頁 (ISBN 4-583-02777-X)
- ^ . 神戸新聞NEXT (神戸新聞社). (2022年10月6日). オリジナルの2022年10月6日時点におけるアーカイブ。 2022年10月7日閲覧。
- ^ “マラソンの田中茂樹さん死去 ボストンで日本人初制覇”. 共同通信 (2022年10月6日). 2022年10月6日閲覧。
- ^ Matt Pepin (2017年4月). “Could you run a marathon in these shoes?” (英語). ボストン・グローブ. 2022–10–07閲覧。
- ^ a b 日本オリンピック委員会. “”. JOC. 2014年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月17日閲覧。
- ^ a b 石井孝 (2016年7月19日). “短期連載〜消えたハリマヤシューズを探して(3) 足袋からシューズへ。国産「ハリマヤ」が世界のマラソンを制した”. Sportiva2019年1月6日閲覧。
外部リンク
- (Archive)
- (Archive)
- - ウェイバックマシン(2009年12月25日アーカイブ分)