人物・来歴
1911年(明治44年)3月22日、長野県長野市に善光寺塔頭蓮華院の長男として生まれる[1]。
旧制・長野県長野中学校(現在の長野県長野高等学校)、旧制・姫路高等学校(現在の神戸大学)をそれぞれ卒業後[1]、東京帝国大学に入学、同文学部で美術史学を専攻し、同学を1934年(昭和9年)に卒業した[1]。卒業後、同郷の映画監督・池田義信の在籍する松竹キネマの松竹蒲田撮影所に入社した[1]。池田のほか、(深田修三)、渋谷実に師事した[1]。
1940年(昭和15年)、三浦光子主演の映画『女の気持』で監督に昇進した[1][2]。第二次世界大戦開戦後の1943年(昭和18年)、河村黎吉・吉川満子主演の『(家に三男二女あり)』を監督した[2]。
終戦後第1作は、1947年(昭和22年)の上原謙・木暮実千代主演の『(消えた死体)』である[2]。1950年(昭和25年)、横山隆一の漫画を原作に笠置シヅ子・堺駿二主演の映画『(ペ子ちゃんとデン助)』を監督したが、同作の取材で脚本家の(中川隆三)と競輪場に通いつめた[1]。このころ美空ひばり主演作品を手がけている[2]。1954年(昭和29年)、ラジオ東京(現在の)の人気放送劇『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』を原作に、淡島千景演じる「チャッカリ夫人」だけをクローズアップした映画『(お景ちゃんのチャッカリ夫人)』を最後に、同年、松竹を退社した[1]。
1955年(昭和30年)からは、『お景ちゃんのチャッカリ夫人』等で組んだ脚本家・長瀬喜伴に誘われ東京映画と本数契約した[1]。移籍第1作は長瀬の脚本、上原謙主演の『(明日の幸福)』で、同年2月12日に東宝が配給して公開された[2]。同年はさらに新東宝で、長瀬の脚本、大木実・藤田進の主演でブラジルでのロケーション撮影を敢行した『(リオの情熱)』を監督した[1][2]。
1960年(昭和35年)からは大映に移籍し、その第1作は長瀬の脚本、川口浩・弓恵子主演の映画『(すれすれ)』を大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)で監督した[2]。1964年(昭和39年)には、謝国権の原作を映画化した『(これからのセックス 三つの性)』を監督[2]、1966年(昭和41年)、田宮二郎主演の映画『(復讐の切り札)』を最後に引退した[1]。
おもなフィルモグラフィ
松竹大船撮影所
- 『女の気持』 : 1940年
- 『(家に三男二女あり)』 : 1943年
- 『(消えた死体)』 : 1947年
- 『(ペ子ちゃんとデン助)』 : 1950年
- 『(父恋し)』 Chichi Koishi : 1951年
- 『(ひばりのサーカス 悲しき小鳩)』 Hibari no Circus: kanashiki kobato : 1952年
- 『(ひばりの悲しき瞳)』 Hibari no kanashiki hitomi : 1953年
- 『(お景ちゃんのチャッカリ夫人)』 : 1954年
東京映画
- 『(明日の幸福)』 : 1955年
- 『(リオの情熱)』 : 新東宝、1955年
東宝
- 『(見事な娘)』:1956年
大映
註
外部リンク
- Mizuho Shunkai - IMDb(英語)
- 瑞穂春海 - 日本映画データベース