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琉球舞踊

琉球舞踊(りゅうきゅうぶよう)とは、琉球沖縄県内で継承されている舞踊の総称。歌舞伎舞踊上方舞京舞と並び、琉球舞踊は2009年9月2日に重要無形文化財に指定されている[1]。俗に琉舞とも通称される。琉球舞踊は、三線(さんしん)、(こと)、太鼓胡弓(こきゅう)で構成される地謡によって演奏される琉球古典音楽に合わせて踊られる。琉球舞踊の分類としては古典舞踊雑踊り(ぞうおどり)、創作舞踊に大別される。

琉球王朝時代は男性官吏やその子弟のみによって踊られたが、琉球王国の崩壊した明治以降、特に戦後は多くの名だたる女流舞踊家が誕生し、今日の琉球舞踊は確固とした地位が確立された。近年では沖縄県立芸術大学国立劇場おきなわの若手実演家育成により多数の舞踊家が誕生している。

概要・歴史

出典:「琉球王朝文化の華「琉球舞踊」」国立劇場おきなわ、文化庁広報誌「ぶんかる」[2]、「琉球舞踊のすがた」文化庁月報・平成23年12月号(No.519)[3]

前史

古来、琉球舞踊は琉球弧各地の祭祀にみられる舞や、琉球最古の古謡集(おもろさうし)の中に舞の所作を示す言葉、コネリ(手をこねる)、ナヨリ(体のなよやかな動き)等、神女らが古俗の神事・祭事の中でオモロ(古謡)を歌いながら舞われる祭祀舞踊であったとみられる。

それらの祭祀舞踊が、長い歴史の中で時代に応じ、神楽田楽、神能、能楽といった日本芸能のほか中華東南アジアなど周辺地域の舞踊の影響を受けつつ発展し、首里城や離宮にあたる識名御殿(識名園)、御茶屋御殿などで披露される宮廷芸能となったと考えられている。

冊封使歓待、中世までの歩み

1370年頃より、三山時代の各王国が中国(当時の、後に)が朝貢関係を結び、1429年の琉球統一後の琉球王国でも朝貢貿易関係が続いた。当初は戦乱の時代であったが、尚巴志王による統一により文化的余裕が生ずると、王国の歴代王統により盛んに中国大陸や東南アジアの文化、文物を取り入れるようになった。三線もこの頃に流入した。

中国との関係では、琉球の国王の代替わりごとに、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が派遣されるようになり、半年近く琉球に滞在する使節のため歓待の宴が催されるようになった。中秋の宴,重陽の宴,拝辞の宴など、首里城内に舞台を設置して芸能の舞を冊封使に披露したのが琉球舞踊の原型と考えられている。

近世における舞踊の確立

近世に入り、羽地朝秀蔡温の大改革以降、古琉球神道を中心とした祭政一致の政治や文化から儒教を中心とした教えに基づき内政の大転換が行われ、文化面でも積極的な振興策により琉球文化が隆盛した。王府は、(躍奉行)(おどりぶぎょう)と呼ばれる奉行を設け、躍奉行が踊り手、演奏者などを任命した。その際の踊り手、演奏者は全て首里士族の子弟を中心に任命された。その際、踊られていたのが、中国からの冊封使をもてなすための芸能、御冠船踊り、今日で言う「古典舞踊」である。この頃(16 - 17世紀頃)までには古典舞踊としての様式が確立していたと見られている。

日本との関係でも、薩摩藩琉球侵攻(1609年)後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた江戸上りの使節には、琉球舞踊を踊るための踊童子が含まれており、徳川将軍の御前や江戸薩摩藩邸などでも披露された。

近代

1879年、いわゆる琉球処分によって沖縄県が設置されると、それまで士族だった舞踊家たちは禄を失った。彼らは王府のあった首里から那覇の街に移って芝居小屋を建て、民衆を相手に芝居興行を営むようになる。その中で、庶民の民謡や生活などを題材にした踊りが作られるようになり、人気を博して多くの名作が生まれた。これが「雑踊り」である。最初は布で仕切ってタダ見を防ぐ程度の粗末な造りの小屋が多かった。1891年に本格的な劇場が誕生した。古典芸能である御冠船踊ばかりでは飽きられたため、アップテンポな琉球民謡を取り入れるなど、所作や衣装など、市井の人々の好みに合わせて次第に多様化していった。とくに、この時代には庶民の女性が主人公となる「アングヮーモーイ(娘さん踊り)」が作られ人気となった[4]

現代

戦後の混乱期は、アメリカ合衆国による沖縄統治下で、郷土芸能が民衆の心の支えとなって注目されるようになった。特に、沖縄タイムス社主催の芸能選賞伝統芸能部門や、琉球新報社主催の琉球古典芸能コンクール、地元新聞社主催のコンクールが開催されるようになってからは、両コンクールを通して、多くの者が琉球古典芸能(琉舞と古典音楽を合わせた呼称)を志すようになった。こうした流れの中で生まれた新しい踊りが、「創作舞踊」と呼ばれる。創作舞踊は、各舞踊家がそれぞれの創作活動の中で生み出したものであり、時期が新しいということを除けば、古典舞踊調であったり、雑踊り調であったり、その構成は様々である。

近年は、国立劇場おきなわ主催の創作舞踊大賞など、琉球舞踊における創作活動は古典舞踊の継承とおなじく今も盛んである、 2009年9月には、伝統芸能としての「琉球舞踊」が国の重要無形文化財に指定され、保持者として計39人(舞踊家14人、三線13人、7人、2人、太鼓2人、胡弓1人)が総合認定された。

主な演目

主な演目は次の通り。

古典舞踊

 古典舞踊は、更に老人踊り女踊り若衆踊り二才踊り打組踊りに分けられる

老人踊り

老人踊りは、宴の冒頭で踊られる祝儀舞踊で、子孫繁栄と長寿をその主題とする。「かぎやで風(かじゃでぃふう)」を始め、県内各地の村踊りとして残る「長者の大主(ちょうじゃのうふしゅ)」がこれに分類される。老人踊りはよく演目のはじめに演じられ、伴奏にのって踊る。

女踊り

女踊りは、古典舞踊を代表する踊りである。女踊りの装束は、朱色または紅型の胴衣(どぅじん)、下半身には裙(かかん)を纏い、腰に巻いた紫長巾に紅型衣装の打ち掛けを挟む「前壺折り めーちぶり」の着付けとなる。結髪は垂髪(かむろう)。紫長巾を頭に巻き、椿や牡丹をあしらった花飾りや熨斗、婆娑羅(バサラ)などの髪飾りをつける。主に愛や恋を主題としたものが多い。舞踊構成は、舞台下手から出る「出羽(んじふぁ)」、主題を成す「中踊り(なかうどぅい)」、舞台下手へ帰る「入羽(いりふぁ)」の三部構成を基本としている。女踊りの中でも、玉城朝薫が創作したと言われる踊りを、「古典女七踊り」または「真踊り」と呼ぶ。主な演目は、「綛掛(かしかき)」「作田(つぃくてん)」「柳(やなじ)」「天川(あまかー)」「本貫花(むとぅぬちばな)」「諸屯(しゅどぅん)」「伊野波節(ぬふぁぶし)」「芋引(うーびち)」「本嘉手久(むとぅかでぃく)」「稲まづん(いにまじん)」「瓦屋(からやー)」「女特牛節(いなぐくてぃぶし)」「四つ竹(ゆちだき)」がある。

若衆踊り

若衆踊りは、若衆(元服前の少年)による舞で、国家安泰や長寿などを予祝し寿ぐ意味合いが強い踊りである。若衆は、男でも女でもない無性とし、衣装は振袖、引羽織をまとい、朱色の足袋を履き、髪は中性の真結い(まーゆい)を結い菊花や金色の椿の花などの飾りをする。演目は、「特牛節(くてぃぶし)」「若衆麾(わかしゅぜい)」「四季口説(しきくどぅち)」「若衆揚口説(わかしゅあぎくどぅち)」などがある。琉球王朝時代には、多くの演目があったが、今日まで知られる物は少なくなった。

二才踊り

二才踊りは、二才(元服した青年)の栄えや、五穀豊穣を寿ぐ内容が主。古典舞踊の中で二才踊りが特異なのは、冊封使の前ではなく、1609年薩摩藩の侵入後、在藩奉行の前、あるいは江戸上りで披露されたという。衣装は黒色のに白黒の脚絆に白足袋を履き、髪は成人男性のカタカシラにカンサシ、ウシザシの2本の簪で留める侍風のいでたち。踊りの手にも、空手棒術など武道の手が取り入れられ、力強い踊りとなっている。演目は、「上り口説(ぬぶいくどぅち)」「下り口説(くだいくどぅち)」「前の浜(めーのはま)」「麾(ぜい)」「湊くり節(んなとぅくいぶし)」「揚作田(あぎつぃくてん)」「江佐節(えさぶし)」のほか、組踊から派生した「高平良萬歳(たかでーらまんざい)」「波平大主道行口説(ふぁんじゃうふぬしみちゆきくどぅち)」「久志の按司道行口説(くしぬわかあじみちゆきくどぅち)」がある。

打組踊り

打組踊りは、打組踊りとは、男女あるいは美女と醜女、という風に対照的な関係にある者たちの心の持ちようを主題とした踊りで、「醜童(しゅんだう)」に代表される。醜童は古典 舞踊の中で継承されている唯一の仮面踊りでもある。

雑踊り

雑踊りは、庶民の生活や思いを主題とした踊りで、躍動感溢れる軽快な踊りが特徴的。衣装は、素足または白足袋に、芭蕉布など日常の着物で踊られ、琉球の風俗習慣が映し出されている。演目は、「花風(はなふう)」「浜千鳥(ちじゅやー、はまちどぅい)」「むんじゅる」「谷茶前(たんちゃめー)」「鳩間節(はとぅまぶし)」「取納奉行(しゅぬぶじょー)」「汀間当(てぃーまーとぅ)」「加那よー(かなよー)」「加那よー天川(かなよーあまかわ)」「貫花(ぬちばな)」「金細工(かんぜーくー)」「戻り駕籠(もどりかご)」「仲里節(なかざとぶし)」「川平節(かびらぶし)」「越来よー(ぐぃーくよー)」「馬山川(ばざんがー)」「黒島口説(くるしまくどぅち)」がある。「花風(はなふう)」「むんじゅる」などは準古典踊りとも呼ばれる。

創作舞踊

創作舞踊は、狭義に戦後隆盛した琉球舞踊の創作活動の中で生み出された比較的新しい琉球舞踊である。主なものは下記の通り(流会派名などで一部省略あり)。

  • 「日傘踊り(ひがさおどり)」
振付/玉城流玉扇会・玉城盛義
  • 「糸満乙女(いとまんおとめ)」
振付/眞境名本流・真鏡名由康
  • 「わたんじゃー舟」
振付/眞境名本流・真鏡名由康
  • 「パーランクー」

振付/真踊流・真境名佳子

  • 「葉かんだ(ふぁーかんだ)」
振付/島袋本流・島袋光裕
  • 「す玉貫花(すだまぬちだま)」
振付/玉城流扇寿会・谷田嘉子、金城美枝子
  • 「水鏡」
振付/重踊流・志田房子
  • 「綾(あや)」
振付/太圭流・佐藤太圭子
  • 「仲島の浦(なかしまのうら)」
振付/柳清会・比嘉清子
  • 「清ら百合」

振付/玉城流いずみ会・玉城静枝

主な流派

琉球舞踊界では、戦後の隆盛を経て数多くの流派が設立された。琉球舞踊の流儀は、概して師となる師匠別に「○○流」という形をとり、その直近の弟子が家元、宗家、会主などを名乗り、「○○流××会」を設立している(一部例外あり)。主な流派は下記の通り。

  • (玉城流) (たまぐすくりゅう)
琉球舞踊、組踊、沖縄芝居の大家、玉城盛重(1868~1945)を祖、玉城盛義(1887~1971)を師とする流派。玉城流玉扇会をはじめとし、玉城流を冠する「会」が20余り存在する。玉城流には国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)に玉扇会・玉城秀子、翔節会・玉城節子、扇寿会・谷田嘉子、金城美枝子、いずみ会・又吉静枝らがいる。
  • (親泊流) (おやどまりりゅう)
玉城盛重を祖、親泊興照(1887~1986)を師とする流派。親泊流・親泊本流などに分かれる。
  • (宮城流) (みやぎりゅう)
玉城盛重を祖、宮城能造(1906~1989)を師とする流派。現在は、宮城流・宮城本流・宮城元流などに分かれている。宮城本流鳳乃会家元・宮城能鳳は2006年国の重要無形文化財「組踊立方」保持者(各個認定)、2009年国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)
  • (安座間本流) (あざまほんりゅう)
読谷山親雲上朝英を祖、金城良章(1908~1993)を師とする流派。仁風会から改称。
  • (松含流) (しょうがんりゅう)
新垣松含(1880~1939)を祖、比嘉澄子(1922~2005)を師とする。
  • (柳清本流) (りゅうせいほんりゅう)
嵩原安詩(1872~1945)・屋嘉良勝(1879~1941)を祖、比嘉清子(1915~1993)を師とする流派。柳清会から改称。真南風流が派生。
  • (貞扇流)(ていせんりゅう)
屋嘉良勝(1879~1941)を祖、山田貞子(1926~1995)を師とする流派。
  • (阿波連本流)(あはれんほんりゅう)
川平親雲上朝美(1852~1921)を祖、阿波連本啓(1903~2001)を師とする流派。啓扇本流が派生。
  • (渡嘉敷流)(とかしきりゅう)
渡嘉敷守良(1880~1952)を師とする流派。
  • (渡嘉敷守良流)(とかしきしゅりょうりゅう) 渡嘉敷守良(1880~1952)に師事した(児玉清子)(1914〜2005)により創流、2代目児玉清子らがいる。渡嘉敷守良、池宮城喜輝により1948年に東京で設立された(沖縄芸能保存会)を継承している。
  • (真境名本流)(まじきなほんりゅう)
真境名由康(1888~1982)を祖、由康の娘、ハワイ在住の真境名由苗を師とする流派と、由康の娘、由乃を師とする宗家眞境名本流眞薫会が存在する。
  • (真踊流)(しんようりゅう)
玉城盛重に師事し、女性舞踊家の第一人者として、戦前戦後にわたり、琉球舞踊の発展と普及に尽力した真境名佳子(1919~2005)を祖とする流派。真境名は、「諸屯」や「伊野波節」など古典女踊りを得意とした。真踊流には人間国宝の宮城幸子氏がいる。
  • (重踊流)(ちょうようりゅう)
玉城盛重、島袋光裕らに師事した人間国宝志田房子により創流。沖縄県内のみならず東京、神奈川にて琉球舞踊を普及。文仁親王妃紀子が学生時代から志田氏に琉球舞踊を師事されていた。
  • (島袋流)(しまぶくろりゅう)
舞踊家、俳優、書家でもある島袋光裕(1893~1987)を祖とし、島袋本流紫の会と島袋流千尋会がある。二代目紫の会宗家は、国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)島袋光晴。島袋光裕の下からは多数の舞踊家が誕生している。
  • (太圭流)(たかりゅう)
島袋光裕に師事した、国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)佐藤太圭子により創流。
  • (大城流)(うふぐしくりゅう)
玉城盛重、真境名佳子に師事した、国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)大城政子により創流。
  • (八曄流)(はちようりゅう)
  • (道扇流)(みちせんりゅう)

ほかに、冠船流、朱日流、世舞流など。また「○○流」の形式をとらない例として、藤の会、かなの会、無憂華の会、緑扇会、美和の会、舞芸さらの会、穂花会、など多数の流派が存在する。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 文化遺産データベース
  2. ^ “琉球王朝文化の華「琉球舞踊」 - ようこそ劇場へ - 文化庁広報誌 ぶんかる”. www.bunka.go.jp. 2019年11月5日閲覧。
  3. ^ “文化庁 | 文化庁月報 |連載 「鑑 文化芸術へのいざない」”. www.bunka.go.jp. 2019年11月5日閲覧。
  4. ^ 大城学【美ら島から】雑踊・民衆が欲し育てた芸能『読売新聞』朝刊2017年8月23日(文化面)

参考文献

  • 宜保栄治郎『琉球舞踊入門』、那覇出版社
  • 大道勇著『琉舞手帖』、ボーダーインク社
  • 伝統組踊保存会
  • 親泊興照 (2代目)  重要無形文化財「琉球舞踊」保持者
    「組踊立方二代目親泊興照(初代親泊久玄)――芸と心――」(兒玉絵里子著、民族芸術学会『民族藝術vol.25』所収、2014年3月) 
  • 児玉絵里子『初期歌舞伎・琉球宮廷舞踊の系譜考ー三葉葵紋、枝垂れ桜、藤の花ー』錦正社、2022年。ISBN (9784764601468)
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