略歴
寛弘7年(1010年)頃、誕生。従五位下・下野守に任官している。
永承年間には六条斎院禖子内親王歌合に参加したり、(橘資成)と歌合を共催したりと[1]、文化人としての側面も残る。
『扶桑略記』には、康平7年(1064年)に国司(上総介橘惟行)の館を焼亡させて佐渡国へ流罪になるという記述が残るなど、粗暴な一面もあったらしい[1]。 二年後に罪を許され帰国を果たしているが、その直後に没した。
官暦
- 長暦2年10月7日(1038年11月12日)、六位蔵人見任。
- 長暦3年1月1日(1039年2月2日)、「今日蔵人範基頼資蒙勘当了、頭弁奉之者、晦日追儺四方拝并御簾等行事範基也、而与頼資相論之間、不勤件事退出、至頼資者、此度無過、而共有勘当、~今年栄爵之巡也、如何々々」(『春記脱漏補遺』)
- 長暦3年11月15日(1039年12月9日)、左衛門尉見任。
- 長久2年1月(1041年)、蔵人を去る。叙従五位下。
- 康平5年12月28日(1063年2月5日)、(下野守)見任。
- 康平6年12月18日(1064年1月15日)、「前下野守源頼資配流」(『百錬抄』)[2]
- 康平7年9月16日(1064年11月3日)、「前下野守源頼資配流佐渡国。依焼亡上総介橘惟行館并殺害人民之愁也」(『扶桑略記』)
- 康平7年12月5日(1065年1月20日)、土佐国に流される
- 治暦2年7月2日(1066年8月1日)、「被免流人前下野守源頼資并興福寺僧静範等類件」(『扶桑略記』)[3]
- 治暦2年8月24日(1066年9月22日)、没
別に記載ない限り、文献 [1] を出典とした。