源 義綱(みなもと の よしつな)は、平安時代後期の武将。河内源氏2代棟梁・源頼義の次男。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、弟の源義光(新羅三郎)と同腹である。
生涯
河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市(壷井))の河内源氏の香炉峰の館に生まれる。京都の賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と称する。
父や兄と共に前九年の役で戦い、その勲功を賞され康平6年(1063年)2月27日に左衛門尉へと任ぜられる。兄の義家とは不仲であったらしく、後三年の役には参戦せず京都に留まり[1]、寛治5年(1091年)6月、義綱の郎党(藤原則清)と義家の郎党藤原実清が河内国の所領を巡って争いを始め、義綱自身も義家と合戦寸前にまで至るが、二人の主人である関白藤原師実が仲裁に入って事なきを得た。
義綱は同年正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を務めた他、翌寛治6年(1092年)2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、寛治7年(1093年)12月には源俊房の慶賀の参内の際に前駆を務めるなどしたが、義家の方は長治元年(1104年)までそうした活動はしていない。
寛治7年(1093年)、出羽守信明[2]が(平師妙)と子の(平師季)に襲撃され殺害される事件が起きた。そこで隣国陸奥守を務めていた義綱に追討が命ぜられ、遙任をしていた義綱は自ら下向する前に郎党を派遣した。その郎党は師妙を斬り、乱を素早く鎮圧した。義綱はその功で義家に並ぶ従四位下に序せられ美濃守に転任している。その勢いは明らかに義家を上回るものであった。
嘉保2年(1095年)、美濃の延暦寺荘園領を宣旨によって収公した際、寺側と小競り合いになり、1人の僧が矢に当たって死んだ。延暦寺・日吉社はこれに怒り、初めて日吉社の神輿を担いでの強訴を行った。義綱の主である関白藤原師通は義綱の他に源頼治を派遣してこれを撃退したが、その際、矢が神輿や神人に当たり、それが仏罰となって、承徳3年(1099年)の師通の若死にをもたらしたとも言われている。白河法皇を牽制していた関白師通が亡くなったことにより、白河法皇はやがて院政を行うようになる。
義綱は一時は義家に並ぶかそれ以上の権勢を手に入れたが、主である藤原師通が亡くなってしまい、その勢いは失われた。また、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいたのか、この後義綱が受領に任じられることはなかった。その一方で、義家は白河法皇に伺候し、正四位下に昇進して院昇殿も許されるなど再び勢いを強めていった。
嘉承元年(1106年)7月1日に兄義家が没すると、河内源氏の棟梁は甥で義家の三男の義忠が継いだ。それから3年後の天仁2年(1109年)2月3日夜、義忠が何者かに斬りつけられ、2日後に死亡するという源義忠暗殺事件が発生した。真犯人は後に源義光と判明したが、当初は美濃源氏の源重実とされ、無実が判明すると、次は義綱と三男の義明が犯人と目されて朝廷から嫌疑を受けた。現場に残された刀が義明のものだったことから、実行犯は義明の乳母夫であり滝口武者である藤原季方であるとされた。義綱は受けた嫌疑に対して反発し、嫡男義弘をはじめとする5人の息子達もこれに抗議の意を込めて父子そろって近江国甲賀山(鹿深山)へ立て籠もるという行動をとった。その際、義明は病の為に行動を共にせず、藤原季方の館に籠った。
こうして甲賀山に入った一行ではあったが、棟梁を継いだ義忠の甥為義が白河法皇からの追討命令を受けた上、義綱の弟であり真犯人である源義光が為義の後押しをするに及んで甲賀山攻撃を開始すると義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。しかし、それに納得できない息子たちは抵抗し、嫡男義弘が義綱に切腹するように言い寄った。それでも義綱は投降しようとしたので義弘は父に範を示そうと兄弟たちの中で真っ先に自害することにし、高い木に登ってそこから谷底に飛び降りて投身自殺した。その後、次男義俊も投身自殺、四男義仲は焼身自殺、五男義範は切腹し、六男義公も自害して果てた。こうして次々と息子たちが自害していく中でただ一人残された義綱はついに甲賀郡大岡寺で出家し為義に投降、三男義明も藤原季方も自害した。そして、義綱は佐渡に流された。
だが、20年以上たった天承2年(1132年)、配流先の佐渡で再び為義の追討を受けることとなり、ついに自害して果てた。後に義忠殺害は冤罪であり、真犯人は弟源義光であったことが判明している。