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源義忠暗殺事件

源義忠暗殺事件(みなもとのよしただあんさつじけん)とは、狭義では天仁2年(1109年)2月3日に源義忠が襲われて2日後に死去した事件であり、広義ではその事件から源義綱父子の追捕と義綱の佐渡への配流をいう。

概要

源義忠暗殺

嘉承元年(1106年)7月1日に河内源氏の棟梁源義家が没すると、河内源氏の棟梁は義家の三男義忠が継いだ。3年後の天仁2年(1109年)2月3日夜、義忠は何者かに斬りつけられ、2日後に死亡した。

美濃源氏源重実が容疑者として左大臣源俊房の邸内で検非違使に逮捕されたが間もなく放免された。その後、現場に残された太刀が、義家の弟である源義綱の三男の源義明のものであることが判明し、今度は義綱と義明に嫌疑の目が向けられた。捜査の結果、義明の乳母夫であり滝口武者である藤原季方が義忠殺害の犯人であると断定された。義綱と、嫡男義弘ら5人の息子達は身内の人間に容疑がかけられたことに憤慨し、義綱の弟源義光の所領がある近江国甲賀郡の甲賀山(鹿深山)へ立て籠もった。一方、義明は病を理由に行動を共にせず、藤原季方の館に籠った。

源義綱父子の抵抗

甲賀山に籠った義綱らに対し、白河院は棟梁を継いだばかりの義忠の甥源為義に義綱父子の追討を命じた。更に、源義光も為義を支援したので、義綱らは窮地に追い込まれた。

為義軍が甲賀山への攻撃を開始すると義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。しかし、無実であるのに降伏するとは到底納得できない息子たちは憤激した。特に白河院の判官代となっていた義弘は主人である白河院からの追討ということもあり、自分たちの身の潔白を証明するための自害に意を強くしており、父義綱にも潔く切腹するように言い寄った。それでも義綱は投降しようとしたので義弘は父に範を示そうと兄弟たちの中で真っ先に自害することにし、高い木に登ってそこから谷底に飛び降りて投身自殺した。その後、次男義俊も兄に続いて投身自殺、四男義仲は為義軍が放った炎に入って焼身自殺、五男義範は切腹し、六男義公も自害して果てた。こうして次々と息子たちが自害していく中でただ一人残された義綱はついに甲賀郡大岡寺で出家し、為義に投降した。

一方で藤原季方邸に籠る義明と季方も白河院の命を受けた美濃源氏で検非違使判官源重時による攻撃を受けた。重時は最初に義忠暗殺犯として逮捕された源重実の弟であった。義明軍は重時軍に二百余人の死傷者を出させるほどの奮戦をしたが最後は義明、藤原季方二人とも自害して果てた。

そして、義綱は佐渡に流された。

真相

こうして義忠の暗殺犯は義綱、義明、藤原季方とされて事件は解決したかに思えたが、真実は違った。真犯人は義忠の叔父であり義綱の末弟である源義光であった。

一般的な説としては義光が兄義家の没後に野心をおこし、河内源氏の棟梁の座を狙った、と言うものであるが、しかし、結果的に河内源氏が凋落し、その主人である藤原摂関家も勢力を落し、院政を敷く白河院が一番得をしているので、源氏の勢力を削ごうと白河院が義光を上手に利用したなどの説がある。

義光は源義忠の暗殺を行うため、郎党の鹿島三郎こと平成幹に義忠の郎党になるように命じ、義忠に近づけさせてその郎党とさせた。そして、かつて後三年の役で活躍し、自らの郎党であると同時に義家の郎党でもあり、その三男の義明の乳母夫で滝口の武士でもある藤原季方に密かに義明の刀を持って来るように命じた。義光はその刀を平成幹に渡し、それで源義忠を襲わせた。背後から襲われた義忠は大けがをしたがそれでも抵抗し、成幹も大きなけがを負ってしまった。そして襲撃後、成幹はこれみよがしに義明の刀を現場に捨てて行った。

成幹は義光の元へ戻り結果を報告した。負傷していた成幹に対し、義光は弟であり園城寺僧の快誉宛の書状を持たせて養生するように言い、園城寺に向かわせた。実はその書状には成幹を処分せよとの指示がなされており、その書状を受け取って読んだ快誉は口封じのために成幹を生き埋めにして殺害した。のちにこの経緯が漏れたことから、成幹が誰かにこの一連の事件の真相を伝えていた可能性がある。

もう一人の郎党である藤原季方は自分が騙されていたのを知って憤激したのか、源義明と運命を共にした。

いつしか源義光が一連の事件の真犯人であったことが世間に広まっていき、居場所がなくなった義光は自身の勢力基盤である常陸国に逃亡した。

義光の最期については大治2年(1127年)10月20日に園城寺で死去したとする説が有力であるが、一方で殺害されたとの説もある。暗殺した義忠の遺児である河内経国によって討たれたとの説である。

結果

これにより河内源氏は義忠・義綱という2人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため失脚。強力な後見人のいない為義は主人である藤原摂関家とともに白河院の院政によって京での勢力は衰退していった。

備考

義家の次弟でこの事件で討たれることになった義綱は兄の義家とは不仲で後三年の役にも関与せず、寛治5年(1091年)6月、義綱の郎党(藤原則清)と義家の郎党藤原実清河内国の所領を巡って争いを始め、義綱自身も義家と合戦寸前にまで至るが、2人の主人である関白藤原師実が仲裁に入って事なきを得た、と言われている。これに対して、三弟でこの事件の真犯人とも言われている義光は後三年の役の際には苦戦する兄・義家のために官を捨てて救援に駆けつけたとする美談で知られている。

しかし、近年では、後三年の役と兄弟関係の良し悪しは別問題で、義光の参戦は摂関家と結びついて京都に拠点を固めた義綱や東国に拠点を固めている義家に対して、勢力拡大の面で出遅れていた義光が義家の救援を口実に奥羽に乗り込んで勢力拡大を図ったものに過ぎないとする指摘もある。実際にこの戦いを背景に常陸国などに基盤を得た義光は、隣の下野国に拠点を持つ義家の四男源義国と義家の存命中より勢力争いを繰り広げることになる[1]

このように、義家・義綱・義光の兄弟は義家の存命中からその子供達を含めて互いに勢力争いを繰り広げており、義光には兄である義綱や甥である義忠を排除する強い動機があったと指摘されている[2]

脚注

  1. ^ 志田諄一「武田義清・清光をめぐって」(初出:『武田氏研究』九、1992年。/所収:西川広平 編著 『甲斐源氏一族』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻〉、2021年。(ISBN 978-4-86403-398-5)。2021年、P47-49.
  2. ^ 志田諄一「武田義清・清光をめぐって」(初出:『武田氏研究』九、1992年。/所収:西川広平 編著 『甲斐源氏一族』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻〉、2021年。(ISBN 978-4-86403-398-5)。2021年、P51.

参考文献

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