渡辺 修渡舟(わたなべ おさむとしゅう、1935年6月25日 - 2007年3月2日)は、日本の画家、彫刻家[1]。
武者小路実篤が「人間らしく生きる」「自己を生かす」ことができる社会を目指して提唱し、その同志が建設した理想郷「新しき村」で義務労働の傍ら、絵画や彫刻の制作に励む。村で毎日絵筆をとる生活をし、絵画教室も開いていた[2]。渡辺登州(わたなべ としゅう)と名乗ることもあった[3]。本名、渡辺修(わたなべ おさむ)。武者小路実篤や高田博厚に師事した。
経歴
鳥取県西伯郡中山村(現・大山町)で生まれ、中学生の頃から絵を描きたいという思いを持ち、武者小路実篤の作品も熱心に読んでいた。将来は教員でもやりながら絵を描こうと思っていたが、高校教師だった兄の話を聞いて教師との両立に疑問を抱く。鳥取県立米子西高等学校を卒業してから、一年間実家の農業を手伝い、反対していた両親を説得して、埼玉県毛呂山町にある「新しき村」に入村。農業・養鶏などに勤しみながら、時間を作っては創作活動に充てていた。
武者小路実篤から「芸術家に生まれたような男で、自分の感じを直接に筆力や(彫刻の)刀に出すことが出来る珍しい男」[4]、高田博厚からは「私は渡辺君の生一本の熱情と誠実さを知っている」と言われた[5]。
出身地である山陰地方を10年にわたり写生するなど約300点の作品を制作。これらの作品のうち122点(屏風四曲2点、二曲33点を含む)を展示する「心の山陰百景展(1987年)」を埼玉県立近代美術館で開催した。これ以外にも、幅1.6m長さ33mの巻物式の『毛呂のやぶさめ』を21点制作。
主な展示場所
新しき村ギャラリー
アトリエ長杉荘
アトリエ長杉荘
アトリエ長山荘外観
略年譜
- 1935年(昭和10年)鳥取県西伯郡中山村(現・西伯郡大山町)に生まれる。
- 1955年(昭和30年)新しき村に入村する。
- 1959年(昭和34年)銀座・なすび画廊にて初の個展。この頃高田博厚に油絵、彫刻を見てもらう。武者小路実篤に、方向と何が大事か教わる。
- 1961年(昭和36年)戦後初めての女性入村者である高橋ナヲ(1927-2017)と結婚[6]。
- 1965年(昭和40年)アトリエ長杉荘完成。修渡舟が美術指導にあたる。
- 1976年(昭和51年)山陰百景を描き始める。
- 1986年(昭和61年)埼玉県立近代美術館にて第28回個展を開催。
- 1987年(昭和62年)埼玉県立近代美術館で第29回個展「心の山陰百景展」開催[7]。埼玉県毛呂山町の流鏑馬や、鳥取県東伯郡中山町の記念碑(置石彫刻)を制作する。
- 2007年(平成19年)修渡舟が死去。
- 2017年(平成29年)妻・ナヲが死去。「村の100周年を盛り上げること、修渡舟の絵を多くの人に見ていただくこと」などを、娘の京鼓に言い残す。
- 2018年(平成30年)アトリエ長杉荘が一般公開される[8]。
周辺施設
新しき村入り口
アトリエ長杉荘近くに静態保存される都電7022電車
都電7022電車(後にアトリエ長杉荘が見える)
脚注
- ^ 世界芸術家辞典編集委員会 (2006年7月25日). 世界芸術家辞典. 順天出版株式会社
- ^ 一般財団法人調布市武者小路実篤記念館 (2018年10月20日). 新しき村の100年. 株式会社ウエタケ
- ^ 埼玉県立近代美術館 (1988). 埼玉県立近代美術館年報. 埼玉県立近代美術館
- ^ 武者小路実篤 (1961). “渡辺修兄の個展によせて”. 第5回渡辺修個展.
- ^ 高田博厚 (1961). “渡辺修君”. 第5回渡辺修個展.
- ^ 調布市武者小路実篤記念館 (2018年10月20日). 新しき村の100年. 株式会社ウエタケ
- ^ 埼玉県立近代美術館 (1988). 埼玉県立近代美術館年報. 埼玉県立近代美術館
- ^ 浅見洋子 (2018). “アトリエ長杉荘 芸術は永遠に”. 月刊新しき村 第70巻第11号: 36.
参考文献
- 中山町役場総務課『広報なかやま(平成16年10月号)』中山町役場総務課、2004年。
- 世界芸術家辞典編集委員会『世界芸術家辞典』順天出版、2006年。
- 調布市武者小路実篤記念館『新しき村の100年』調布市武者小路実篤記念館、2018年。
- 小島真樹『新しき村(平成30年11月号)』新しき村、2018年。