清原 広澄(きよはら の ひろずみ)は、平安時代中期の貴族・儒学者。左大史・海業恒の子。官位は正五位下・明経博士。広澄流清原氏の氏祖。
出自
出自は諸説あるが、(海氏)(海宿禰)出身が定説(詳細な議論は(清原氏 (広澄流)#出自)を参照)。太田亮は、海氏の中でも特に天武天皇の時代の(凡海氏)(大海氏)の凡海麁鎌の子孫と主張した[3]。
経歴
小野吉柯の門人。直講を経て、寛和元年(985年)権少外記に任ぜられると、寛和2年(986年)少外記、永延元年(987年)大外記と一条初期に外記を務めながら急速に昇任し、永延2年(988年)従五位下に叙爵して、外記局を離れた。
(大隅守)などの地方官を務めたのち、明経道助教として京官に復し、長保4年(1002年)明経博士に任ぜられた。寛弘元年(1004年)(海宿禰)から清原真人に改姓し、位階は正五位下に至る。
寛弘6年(1009年)7月5日(卒去)。享年76。跡を養嫡子の(頼隆)(弟の近澄の子)が継いだ[4]。
死後、大江匡房の『 (続本朝往生伝)』(1100年ごろ)では、一条天皇治世下(986–1011年)の代表的な明経道の儒学者について、善澄と広澄が双璧として語られている[4]。
官歴
注記のないものは『外記補任』による。
系譜
- 父:海業恒
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 養子
- 男子:(清原頼隆) - 弟近澄の子