» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

濱口儀兵衛

濱口 儀兵衛(はまぐち ぎへえ)は、江戸時代初頭に下総国銚子(現:千葉県銚子市)で創業した醤油醸造業者・廣屋儀兵衛商店(現在のヤマサ醤油)の当主に代々受け継がれる名前である。

紀伊国有田郡広村(現:和歌山県広川町)を発祥の地とする。同族である濱口吉右衛門家(現在のヒゲタ醤油に連なる)を「東濱口家」と呼ぶのに対して、濱口儀兵衛家は「西濱口家」とも呼ばれる。歴代の儀兵衛の中では、「稲むらの火」の物語のモデルとして知られる幕末・明治初期の7代目儀兵衛(濱口梧陵)、工程と事業の近代化に努め「醤油王」と謳われた10代目儀兵衛(濱口梧洞)が著名である。

初代 儀兵衛

初代 濱口儀兵衛は、正保2年(1645年)、紀州から下総国銚子にわたり、醤油醸造業を開始。

儀兵衛の兄が初代濱口吉右衛門で、東濱口家の祖となった。

7代 梧陵

7代目 濱口儀兵衛文政3年6月15日1820年7月24日) - 1885年明治18年)4月21日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期にかけての当主。名は成則、号は梧陵(ごりょう)。

5代目灌圃の孫にあたり、分家の濱口七右衛門家に生まれる。嘉永6年(1853年)、儀兵衛家に入って家督を相続。嘉永7年(1854年)の安政南海地震に際して広村住民の津波からの避難誘導にあたり(これをもととして、のちに「稲むらの火」の物語が記された)、地震後は広村の堤防建設に尽力した。また、人材育成や医学の発展にも支援を行い、政治家としても活動した。

10代 梧洞

 
10代 濱口儀兵衛

10代目 濱口儀兵衛1874年(明治7年)4月24日 - 1962年(昭和37年)1月31日)は、明治後期から昭和戦前期にかけての当主。名は慶次、号は梧洞。「醤油王」と謳われた。

和歌山県で八代儀兵衞の二男として生まれる[1]帝国大学理科に進み、イギリスに留学して化学を専攻。1899年(明治32年)に儀兵衛家を継ぐ。1928年(昭和3年)には濱口儀兵衛商店を株式会社組織に改組、現在のヤマサ醤油株式会社を発足させて社長に就任、醸造工程と経営の近代化に努めた。また、理化学研究所日本醸造協会日本工業倶楽部などの評議員を務めた。1925年(大正14年)千葉県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員(多額納税者議員)に互選され、同年5月18日から[2]1939年(昭和14年)9月28日まで在任した[3]

三男は版画家の浜口陽三。六男は灘の醸造家・本嘉納家(「菊正宗」で知られる)を継いだ嘉納毅六。

脚注

  1. ^ 濱口儀兵衛『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、32頁。
  3. ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、217頁。

外部リンク

  • ヤマサの歴史 - ヤマサ醤油
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。