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河口正史

河口 正史(かわぐち まさふみ、1973年2月19日 - )はアメリカンフットボールの元選手、コーチ、および解説者。兵庫県川西市生まれ。愛称は「マーサ」。「フィードバックディスク」スーパーバイザー。

 河口 正史
桜美林大学スリーネイルズクラウンズ  ストレングスコーチ
ポジション ラインバッカーセイフティ
生年月日 (1973-02-19) 1973年2月19日(50歳)
国籍 日本
出身地 兵庫県川西市
身長 180[1]cm
経歴
高校 早稲田大学本庄高等学院
サン・クレメンテ・ハイスクール
大学 立命館大学
所属歴
選手
1997 アサヒビールシルバースター
1997-2003 (アムステルダム・アドミラルズ)
2001-2008 アサヒ飲料チャレンジャーズ
2002、2003 サンフランシスコ・フォーティナイナーズ(キャンプのみ参加)
コーチ
1998 立命館大学
2002-2008 アサヒ飲料チャレンジャーズ
2003-2008 追手門学院大学
2015- 桜美林大学

略歴

アメリカ合衆国ニュージャージー州の小学校に通っていたときにアメリカンフットボールに出会う。帰国して、中学時代は履正社学園豊中中学校で野球部に所属していたが、練習ボイコットや集団退部などを企て、廃部に追い込んだという(成人後、当時の顧問の教諭には謝罪した)。早稲田大学本庄高等学院に進学しラグビーをはじめるが成績不良のために放校処分となった。(本人曰く、パチンコ店の新装開店とラグビーの練習だけは皆勤賞だった。放校処分された理由は、単に勉強しなかったので進級出来なかっただけだという。)その後、アメリカからの帰国子女だった友人の影響で再び渡米、カリフォルニア州の高校、サン・クレメンテ・ハイスクール (San Clemente High Schoolで本格的にアメリカンフットボールに取り組む。

サン・クレメンテ・ハイスクール卒業後、日本に帰国。立命館大学国際関係学部入学と同時にアメリカンフットボール部(パンサーズ)に入部。1994年、天才QBと呼ばれた東野稔らと共に同大初の甲子園ボウル優勝に貢献。1994年1月のアイビーボウルでは敢闘賞に選ばれた[2]

大学卒業後、アサヒビールに入社し、並行してNFLヨーロッパへ参戦。(アムステルダム・アドミラルズ)(英語版)オランダ)のラインバッカーとしてプレーし、3年目には「オールNFLヨーロッパ」に選出。

1998年、グリーンベイ・パッカーズ、2000年、ダラス・カウボーイズと、アメリカンボウルに来日するチームのトレーニングキャンプに参加した[3]

2002年2003年NFLサンフランシスコ・フォーティナイナーズのキャンプに招集されるが、開幕ロースターには残れず。2002年8月4日に大阪ドームで開催されたプレシーズンマッチNFL OSAKA 2002(対ワシントン・レッドスキンズ戦)で、スペシャルチームのメンバーとして数プレーに出場。日本人で初めてNFLプレシーズンマッチに出場した選手となる。この年アメリカで行われたプレシーズンゲームにも日本人として初めて出場、1タックルをあげた。2003年にはトレーニングキャンプ中に太ももの肉離れを起こしてプレシーズンゲーム出場はならなかった[3]

2003年秋以降はXリーグ西地区のアサヒ飲料チャレンジャーズに所属。2007年シーズンは主将を務めた。2008年シーズンはポジションをセイフティに変更。社会人リーグ西地区優勝に貢献。2008年シーズンを最後に現役引退[4]。選手活動の傍ら、追手門学院大学の客員教授およびアメリカンフットボール部のヘッドコーチを務めた。2009年5月にトレーニング機器の販売などをする会社を設立。今後はトレーニング指導や機器販売などの事業に専念する予定。

吉本興業とマネジメント契約を結んでおり、NHK日本テレビ日テレジータス)でNFL中継の解説も務めている。アサヒ飲料で2008年にチームメイトだった有馬隼人とコンビを組むことが多い(基本的に河口が解説で、TBSアナウンサーであった有馬が実況)。2015年シーズンまではGAORAでも解説を務めた。

2015年2月より、桜美林大学(アメリカンフットボール部)のトレーナーに就任した[5]

『スポーツマンNo.1決定戦』での成績

  • 1999年に『スポーツマンNo.1決定戦』(TBS系列)に初出場し、THE GALLON THROWで1位(記録5m75cm)になる。暫定トップだったが、最終種目SHOT-GUN-TOUCHで飯田哲也(当時ヤクルトスワローズ)に逆転され、総合2位に終わる。
  • 翌2000年に再出場。今回も最終種目まで暫定トップだったが、SHOT-GUN-TOUCHで今度はケイン・コスギに抜かれ、逆転される苦汁を2度味わった。
  • 2001年に3年連続出場。準決勝、POWER FORCEで清原和博(当時読売ジャイアンツ)と1分30秒の激闘の末に敗れたが、このシーンはその後幾度も放送されている。この大会は総合4位で終了。
  • その後、2004年まで計6回連続出場を果たす。2002年、2003年は低迷するも、2004年は久々に上位進出。最終種目の時点で2位だったが、SHOT-GUN-TOUCHで振るわず、最後は同じアメフト選手の里見恒平に抜かれて総合3位に終わる。
プロスポーツマン大会
大会 放送日 総合順位
第5回大会 1999年1月1日 2位
第6回大会 2000年1月1日 2位
第7回大会 2001年1月1日 4位
第8回大会 2002年1月1日 9位
第9回大会 2003年1月1日 7位
第10回大会 2004年1月1日 3位

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ “吉本興業株式会社 スポーツ選手プロフィール 河口正史”. 2015年3月4日閲覧。
  2. ^ アメフト アイビーボウル8日 アイビー選抜が5連勝 読売新聞 1994年1月9日 朝刊15ページ
  3. ^ a b “NFLに最も近い日本人選手”. NFL JAPAN (2003年9月30日). 2012年7月28日閲覧。
  4. ^ 近藤祐司 (2009年4月3日). “日本人初のNFLに近づいた男、河口正史が引退!”. NFL JAPAN.COM. 2015年9月30日閲覧。
  5. ^ “”. 47NEWS (2015年6月12日). 2015年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月30日閲覧。

関連項目

外部リンク

  • [1]
  • 河口正史Blog
  • 河口正史 (@jpecmasa) - Twitter(旧Twitterアカウント)
  • 河口正史 (@JPECMASAFUMI) - Twitter(新Twitterアカウント)
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