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河口 正史(かわぐち まさふみ、1973年2月19日 - )はアメリカンフットボールの元選手、コーチ、および解説者。兵庫県川西市生まれ。愛称は「マーサ」。「フィードバックディスク」スーパーバイザー。
桜美林大学スリーネイルズクラウンズ ストレングスコーチ | |||||||||||||||||||||||
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ポジション | ラインバッカー、セイフティ | ||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1973年2月19日(50歳) | ||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||
出身地 | 兵庫県川西市 | ||||||||||||||||||||||
身長 | 180[1]cm | ||||||||||||||||||||||
経歴 | |||||||||||||||||||||||
高校 | 早稲田大学本庄高等学院 サン・クレメンテ・ハイスクール | ||||||||||||||||||||||
大学 | 立命館大学 | ||||||||||||||||||||||
所属歴 | |||||||||||||||||||||||
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略歴
アメリカ合衆国ニュージャージー州の小学校に通っていたときにアメリカンフットボールに出会う。帰国して、中学時代は履正社学園豊中中学校で野球部に所属していたが、練習ボイコットや集団退部などを企て、廃部に追い込んだという(成人後、当時の顧問の教諭には謝罪した)。早稲田大学本庄高等学院に進学しラグビーをはじめるが成績不良のために放校処分となった。(本人曰く、パチンコ店の新装開店とラグビーの練習だけは皆勤賞だった。放校処分された理由は、単に勉強しなかったので進級出来なかっただけだという。)その後、アメリカからの帰国子女だった友人の影響で再び渡米、カリフォルニア州の高校、サン・クレメンテ・ハイスクール (San Clemente High School) で本格的にアメリカンフットボールに取り組む。
サン・クレメンテ・ハイスクール卒業後、日本に帰国。立命館大学国際関係学部入学と同時にアメリカンフットボール部(パンサーズ)に入部。1994年、天才QBと呼ばれた東野稔らと共に同大初の甲子園ボウル優勝に貢献。1994年1月のアイビーボウルでは敢闘賞に選ばれた[2]。
大学卒業後、アサヒビールに入社し、並行してNFLヨーロッパへ参戦。(アムステルダム・アドミラルズ)(オランダ)のラインバッカーとしてプレーし、3年目には「オールNFLヨーロッパ」に選出。
1998年、グリーンベイ・パッカーズ、2000年、ダラス・カウボーイズと、アメリカンボウルに来日するチームのトレーニングキャンプに参加した[3]。
2002年と2003年、NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズのキャンプに招集されるが、開幕ロースターには残れず。2002年8月4日に大阪ドームで開催されたプレシーズンマッチNFL OSAKA 2002(対ワシントン・レッドスキンズ戦)で、スペシャルチームのメンバーとして数プレーに出場。日本人で初めてNFLプレシーズンマッチに出場した選手となる。この年アメリカで行われたプレシーズンゲームにも日本人として初めて出場、1タックルをあげた。2003年にはトレーニングキャンプ中に太ももの肉離れを起こしてプレシーズンゲーム出場はならなかった[3]。
2003年秋以降はXリーグ西地区のアサヒ飲料チャレンジャーズに所属。2007年シーズンは主将を務めた。2008年シーズンはポジションをセイフティに変更。社会人リーグ西地区優勝に貢献。2008年シーズンを最後に現役引退[4]。選手活動の傍ら、追手門学院大学の客員教授およびアメリカンフットボール部のヘッドコーチを務めた。2009年5月にトレーニング機器の販売などをする会社を設立。今後はトレーニング指導や機器販売などの事業に専念する予定。
吉本興業とマネジメント契約を結んでおり、NHK・日本テレビ(日テレジータス)でNFL中継の解説も務めている。アサヒ飲料で2008年にチームメイトだった有馬隼人とコンビを組むことが多い(基本的に河口が解説で、TBSアナウンサーであった有馬が実況)。2015年シーズンまではGAORAでも解説を務めた。
『スポーツマンNo.1決定戦』での成績
- 1999年に『スポーツマンNo.1決定戦』(TBS系列)に初出場し、THE GALLON THROWで1位(記録5m75cm)になる。暫定トップだったが、最終種目SHOT-GUN-TOUCHで飯田哲也(当時ヤクルトスワローズ)に逆転され、総合2位に終わる。
- 翌2000年に再出場。今回も最終種目まで暫定トップだったが、SHOT-GUN-TOUCHで今度はケイン・コスギに抜かれ、逆転される苦汁を2度味わった。
- 2001年に3年連続出場。準決勝、POWER FORCEで清原和博(当時読売ジャイアンツ)と1分30秒の激闘の末に敗れたが、このシーンはその後幾度も放送されている。この大会は総合4位で終了。
- その後、2004年まで計6回連続出場を果たす。2002年、2003年は低迷するも、2004年は久々に上位進出。最終種目の時点で2位だったが、SHOT-GUN-TOUCHで振るわず、最後は同じアメフト選手の里見恒平に抜かれて総合3位に終わる。
- プロスポーツマン大会
大会 | 放送日 | 総合順位 |
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第5回大会 | 1999年1月1日 | 2位 |
第6回大会 | 2000年1月1日 | 2位 |
第7回大会 | 2001年1月1日 | 4位 |
第8回大会 | 2002年1月1日 | 9位 |
第9回大会 | 2003年1月1日 | 7位 |
第10回大会 | 2004年1月1日 | 3位 |