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河北潟

河北潟(かほくがた)は、石川県中部にある潟湖である。金沢平野の北部に位置し金沢市河北郡内灘町にまたがる[1]。古くは蓮湖・大清湖(たいせいこ)とも呼ばれた[2]。潟周辺には約70km2に及ぶ湖岸平野が広がる[3]

河北潟

河北潟空撮画像
2007年8月18日撮影
所在地 日本
石川県金沢市河北郡内灘町
位置
北緯36度38分56秒 東経136度40分30秒 / 北緯36.64889度 東経136.67500度 / 36.64889; 136.67500座標: 北緯36度38分56秒 東経136度40分30秒 / 北緯36.64889度 東経136.67500度 / 36.64889; 136.67500
面積 4.20[1] km2
周囲長 24.8 km
最大水深 6.5 m
水面の標高 0 m
成因 海跡湖
淡水・汽水 淡水湖
湖沼型 富栄養湖
プロジェクト 地形
(テンプレートを表示)
野鳥観察舎から内灘大橋方面を望む
河北潟放水路防潮水門(河北潟放水路側水面上から望む)
金沢港(大野川)防潮水門(金沢港側水面上から望む)

日本海沿岸にある内灘砂丘でせき止められてできた海跡湖である。かつては汽水湖であったが、干拓が行われた現在は淡水湖。干拓前は面積23km2、周囲長約37kmであった[3]が、2014年10月1日現在の面積は4.20km2[1]である。

沿革

鉄道開通以前は水運も発達し、宇ノ気町日角には船着き場があった[4]

埋め立てと干拓

かつて蓮湖、あるいは大清湖と呼ばれており、潟を埋め立てて農地に切り開こうという試みは、小規模ながらも古くから何度も繰り返されてきた。このことは潟端(津幡町)の地名などに痕跡が見られる[5]

新田開発を目的とした本格的な干拓は1672年寛文12年)または1673年延宝元年)に5代目加賀藩主前田綱紀が鷹狩りで河北潟を訪れた時、湖畔が新田開発に適した土地であることを認め、農民を入植させて約3haの開墾(かいこん)を実施したのが始まりである。以降数次にわたる小規模埋立が行われた後、1849年嘉永2年)、銭屋五兵衛によって230haの埋立によるる巨大な新田開発が開始された。この時に綱紀が記念に植樹したシイノキの巨木が、集落の民家の庭に今も残っている[6][5]

1851年には、豪商銭屋五兵衛が私財を投じて干拓を試みた。しかし埋め立ての土砂を固めるのに石灰を使用したことを毒物を流したと曲解され、翌年、付近で発生した伝染病の原因がその毒物で汚染された魚を食べたからと噂された。このため五兵衛は投獄され、獄中死したため事業は中断された。

昭和に入ると昭和恐慌を機に出稼ぎ漁業が不振に陥り、砂丘地の内灘村(現在の内灘町)では潟を埋め立てて水田を求める機運が一気に高まったものの、さしたる進展は見られなかった[7]

第二次世界大戦後、内灘試射場問題で内灘村(現在の内灘町)は見返りとして河北潟の干拓事業を要求。1963年から農林水産省による国営事業『国営河北潟干拓土地改良事業』として行われ、金沢港の建設と並行しながら[8]総面積64%が干拓されることになった。1971年1月に干陸完了、1979年10月に暫定営農を開始し[4][7]、約1101.3ha[4]の農地が1985年に完成した(総事業費は300億円余り[7])。しかし既に農業減反政策の時代に移っており、1977年からは米の需要調整のため畑地造成に変更された[4]。このため2014年4月現在も未入植地が多く残る。

この干拓と埋め立てにより豪雨により潟にたまった水を海へと放出する防潮水門をはじめ数台のポンプ施設、延長17㎞の護岸堤[4]淡水湖汽水湖を分ける水門など数々の施設が出来た。また、放水路開削工事も内灘砂丘を1,670mにおよび切り開く大工事であった[7]

潟内での漁業権は1964年に消滅しており、1973年より県漕艇競技場として利用されている。現在でも調整池や東部承水路、西武承水路など816.7haの水域を残しており、沿岸流域の洪水調節と干拓地ならびに既耕地の灌漑用水路、輸入材の貯木場として利用されている[4][8]

河北潟が埋め立てと干拓の双方を行っていることから地元ではこの2つの違いを小学校の中学年、高学年で河北潟を題材に学ぶこともある。

 
1997年、河北潟干拓地で観測されたヘール・ボップ彗星

自然

河北潟ではガマやアシ(河北潟周辺ではヨシと言う)などの植物や鳥ではカモサギ、更に絶滅危惧種に指定されているチュウヒなど、魚ではギンブナコイボラブラックバスなどという豊かな自然がある。河北潟周辺の地域ではこれらの生き物を守るために、子供から老人までさまざまな活動をしている。

 
河北潟周辺の空中写真。1975年撮影の6枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

産業

干拓事業では、計画では稲作を想定していた。しかし、(米余り)のため途中で畑作に転換された。レンコンスイカキャベツなどの大規模栽培や酪農が盛んである。周辺には県による農業試験場などが整備されている。

かつてはフナを中心にウナギワカサギシジミなどの漁業も行われていた[9]。 が、現在は漁業権が消滅している(1963年に漁業補償調印[9])。残された水域も防潮水門により淡水化されている。残された水域は県営漕艇競技場などに利用されている。また、かつて浅野川の河口だった部分は現在、貯水場となっている。

河川

流れ込む川
流れ出す川

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 国土地理院 (2015年3月6日). “平成26年全国都道府県市区町村別面積調 湖沼面積” (PDF). 2015年3月22日閲覧。
  2. ^ 六十余州名所図会加賀に蓮湖と記される
  3. ^ a b 笠間(2000):99ページ
  4. ^ a b c d e f 『角川日本地名大辞典 17 石川県』(1981年7月8日、角川書店発行)270ページ
  5. ^ a b 潟端のシイノキ(津幡町観光ガイド、2022年11月1日閲覧)
  6. ^ 河北潟干拓地の歴史(河北潟カタダカラ、2022年11月1日閲覧)
  7. ^ a b c d 『古地図で楽しむ金沢』(2017年9月7日、本康宏史編著、風媒社発行)131頁『河北潟の干拓』より。
  8. ^ a b 『古地図で楽しむ金沢』(2017年9月7日、本康宏史編著、風媒社発行)130頁より。
  9. ^ a b 笠間(2000):102ページ

参考文献

  • 笠間悟(2000)"ラグーンと砂丘地の変貌 河北潟と内灘砂丘"平岡昭利野間晴雄『中部Ⅱ 地図で読む百年 長野・新潟・富山・石川・福井』(古今書院、2000年7月15日、125pp. (ISBN 4-7722-5048-4)):99-104.

外部リンク

  • ほっと石川旅ねっと 河北潟 - 石川県観光連盟
  • 津幡町観光ガイド 河北潟 - 津幡町
  • 河北潟干拓地 - 石川県農林水産部農業政策課
  • 河北潟干拓土地改良区
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