河内王朝(かわちおうちょう)は難波 (なにわ:現在の大阪市) の上町台地一帯に本拠地を置いた倭国の王朝。始祖は大王と呼称された倭国の首長であり難波高津宮 (なにわのたかつのみや) (大阪市) に皇居を置いた仁徳天皇。応神天皇とは同一人物である、と言う事がもっとも有力な説である。
概要
万世一系の皇統が神武天皇による建国以来、連綿と続いてきたとする『日本書紀』の記述に対し、倭国時代に複数の王朝が興亡したとするのは、歴史学上のひとつの立場表明である(王朝交替説)。
難波宮に拠点をおいた大王たちをひとつの王朝と見なす主張の中にも、始祖をだれとみなすか、王朝の名称をなんと称するかなどの点で、さまざまな諸説がある。
4世紀末に河内に新政権(河内王朝)が成立したとする説の源流は、1949年発表の江上波夫らによる座談会「日本民族・文化の源流と日本国家の形成」(『民族学研究』13巻3号)にあるとされる[1]。その後、1960年代に直木孝次郎、上田正昭、岡田精司らが、この立場に立った研究を次々と発表した[1]。河内王朝論は1960年代においては有力な説であったが、1980年代以降、学界では否定的な見解が多くなっている[1]。
この政権の名称を最初に河内王朝と称したのは上田正昭であり、以降、「河内王朝」の名称が定着することとなった[1]。東洋史学者の岡田英弘、日本史学者の(塚口義信)などが「河内王朝」の名称を用いている。難波王朝と称する研究者には考古学者の山根徳太郎[2]がいる。直木孝次郎は、応神天皇を政権の初代とみなす立場から「応神王朝」という名称を用いていたが、後に「王朝国家」との混同を避けるため、「河内政権」という呼称を用いるようになっている[1]。
岡田英弘による学説
岡田英弘は、日本書紀にいう神武天皇から応神天皇までの歴代を、『日本書紀』の編纂を命じた現政権(天武天皇とその子孫たち)の都合によって創出された架空の存在とし、日本書紀の歴代天皇たちのうち、歴史上存在したのが確実なのは仁徳天皇からであるとし、禰とその子孫たちの王統を河内王朝と称する[3]。
岡田は、雄略天皇に比定される倭王武が487年に中国の南朝宋に送った上表文にいう「祖禰(そでい)」を「「祖父である禰」の意味」だと解釈、禰(でい)を倭王武の祖父の名だと解釈した。
岡田は、この解釈にもとづき、宋書にみえる倭の五王と『日本書紀』の歴代天皇を次のように比定している[4]。
禰(仁徳天皇)┬賛(履中天皇) ├珍(反正天皇) └済(允恭天皇)┬興(安康天皇) └武(雄略天皇)