来歴
県立広島工業高校の3年時の1977年には猿沢茂とツートップを組み岡山高校総体ベスト4、得点王も獲得し全日本高校選抜にも選出された[1]。
1982年に東京農業大学を卒業後、日本サッカーリーグ2部に降格した杉山隆一監督下のヤマハ発動機サッカー部に入部。突破力とシュート力を買われすぐにFWとして起用され、同期入団の内山篤や柳下正明らと共に活躍した。
前期終了後にコーチとして招聘されたハンス・オフトからトータルサッカーの要である攻撃的MFにコンバートされ、忠実なプレーでチームの1部昇格に貢献した[1]。
第62回天皇杯では若き主将として大活躍を見せる。まずは富士通との2回戦で決勝点(1-0)、勝負所の三菱重工との準々決勝でも、フリーキックからのヘディングシュートで決勝点(1-0)、準決勝の読売クラブ戦では先制ゴール(2-0)を決めるなど、同サッカー部の天皇杯初優勝の立役者となった。