汪 興祖(おう こうそ、? - 1371年)は、元末明初の軍人。本貫は(無為州)巣県。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。養父の張徳勝も朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。
生涯
姓名 | 汪興祖 |
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時代 | 元代 - 明代 |
生没年 | 生年不詳 - 1371年(洪武4年) |
字・別名 | 張興祖(別名) |
本貫・出身地 | (無為州)巣県 |
職官 | 湖広行省参政→大都督府僉事→同知大都督府事 →大都督府副使→都督兼右率府使→宣武衛指揮同知 |
爵位 | 東勝侯(明) |
諡号 | - |
陣営・所属 | 朱元璋 |
家族・一族 | 父:張徳勝(養父)、弟:(張宣)(義弟)、子:汪某(名前不詳) |
元の姓は汪であるが、張徳勝の養子となり、張興祖と名乗っていた。養父の張徳勝は、兪通海らと巣湖に割拠していた。
1355年5月、張徳勝は、兪通海らと共に朱元璋に帰順した。以後、張徳勝は朱元璋軍の戦力として大いに働いた。
1360年5月、采石での戦いで張徳勝が亡くなった。子の(張宣)は幼く、養子の張興祖がその職を継いだ。
1361年8月、安慶・江州・蘄州・黄州を攻略した。南昌を攻略した。
1363年3月、安豊救援に参加し、張士誠軍を破った。7月、鄱陽湖の戦いに参加し、6艘のうちの1艘に乗り、敵軍深く侵入して、陳友諒軍の士気を低下させた。涇江口で伏兵として、陳友諒軍と戦った。功績は最も大きく、湖広行省参政に抜擢された。
1364年2月に武昌を攻略した。4月、兪通海と共に劉家港を奪い、通州を攻めた。張士誠の院判(朱瓊)・元帥陳勝等百余人を捕らえた。7月に廬州を攻略した。各地を攻略し、通州に至った後、帰還した。大都督府僉事に進んだ。
1366年3月、淮東・浙西を攻略した。同知大都督府事に進んだ。
1367年10月、北伐に参加し、徐州を経由して、沂州・青州を攻略した。12月、東平を攻略し、元の平章(馬徳)は城を棄てて敗走した。勝ちに乗じて、指揮(常守道)・千戸(許乗)を派遣して、東阿へ進ませた。元の参政(陳璧)のほか、5万余人が降伏した。孔子の56世の孫で衍聖公の(孔希学)が曲阜知県の孔希挙や鄒県主簿(孟思諒)らを率いて軍門に下ったため、興祖はかれらを礼遇した。兗東の州県はこの話を聞いて、次々と降伏した。済寧へ進み、守将の(陳乗)はすぐに城を棄て、甲子へ敗走した。済南を攻略した。
1368年(洪武元年)、都督兼右率府使となり、2月に楽安・汴梁を攻略した。4月に河南・洛陽を攻略した。済寧へ帰還し、これを守った。7月、徐達の召集に応じ、東昌で諸軍と合流した。徐達に従い、徳州へ向かった。常遇春と共に水軍を率いて大運河を進み、8月に元の首都の大都を攻略した。永平を攻略した。
1369年(洪武2年)1月、常遇春に従い、西進して大同へ至った。守将の(竹貞)は城を棄て、元軍を破り、数多くの兵を討ち取り、捕虜にして大同を攻略した。張徳勝の実子の張宣が成長したため、張興祖は宣武衛指揮同知となり、姓を汪に復した。大同都督同知となり、大同を守った。
1370年(洪武3年)2月、武州・朔州を攻略し、元の知院(馬広)等を捕らえた。兵を率いて大同の北口に至り、元軍に大勝した。ココ・テムルの弟の(金剛奴)等4百余を捕らえた。ほどなく晋王朱棡の武傅をつとめるよう命じられ、山西行都督府僉事を兼ねた。
1371年(洪武4年)1月、征虜前将軍傅友徳と共に夏討伐に参加した。4月、階州・文州を攻略し、勝ちに乗じて五里関へ至った。五里関の戦いの最中、馬を躍らせて、攻めかかったが、飛石に当たって亡くなった。夏平定後、汪興祖の子に賞が贈られ、東勝侯と追封された。
子の汪幼は張宣と同居していたが、病没して爵位を剥奪された。