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池田末男

池田 末男(いけだ すえお、1900年(明治33年)12月21日 - 1945年(昭和20年)8月18日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将陸士(34期)。占守島の戦いで戦死した。「戦車隊の神様」と呼ばれる。

池田 末男
渾名 「戦車隊の神様」
生誕 1900年12月21日
日本 愛知県豊橋市
死没 (1945-08-18) 1945年8月18日(44歳没)
占守島
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1922 - 1945
最終階級 陸軍少将
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概説

愛知県豊橋市向山出身。陸軍憲兵少佐・池田筆吉の五男。兄の池田廉二(陸士(23期))は陸軍中将。

愛知県豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)、陸軍中央幼年学校予科(東京陸軍幼年学校に相当)、陸軍中央幼年学校本科を経て陸軍士官学校に入校[1]。大正11年7月28日に卒業し(34期)、陸軍騎兵将校となった。騎兵連隊の中隊長を務めた後は教育畑を転々とし、1941年昭和16年)11月、満洲公主嶺陸軍戦車学校の教官に着任。翌年11月、四平に学校が移転したのち、1944年(昭和19年)7月15日に校長代理。

1945年(昭和20年)1月22日、千島列島幌筵島柏原の(戦車第11連隊)長(第91師団隷下)に着任、占守島の長崎に渡る。連隊長代理・池田吉四郎らに出迎えられ千歳台の連隊本部に入る。1月24日に布達式。

昭和20年8月18日、戦車第11連隊を率いて占守島に侵攻したソ連軍と戦い、四嶺山の戦闘で戦死した。44歳没。戦死時の階級は陸軍大佐、戦死により陸軍少将に進級。

占守島の戦い:四嶺山の戦闘

戦車第11連隊の概況

昭和20年8月時点で、戦車第11連隊は人員764名で、6個戦車中隊と1個整備中隊を有していた[2][3]。装備する戦車は、一式中戦車47㎜対戦車砲)19両、九七式中戦車57㎜砲)20両、九五式軽戦車(37㎜砲)25両、計64両であった[3][注釈 1]

出撃

8月15日の玉音放送後、戦車第11連隊は終戦業務にあたっていた。しかし、ソ連軍が占守島への侵攻を開始すると、8月18日02:30、池田は千歳台の戦車第11連隊本部で第91師団長堤不夾貴中将から戦闘配備命令を受けた。池田はただちに大和橋の第4中隊に索敵を命じ、本部および隷下の各中隊に、戦闘準備と占守島中央部の天神山への集結を命じた。

05:00、池田は天神山に進出した[5]。戦車第11連隊の主力も天神山に集結しつつあった[5]。一方、四嶺山を拠点に占守島北部を守る独立歩兵第282大隊(大隊長:村上則重少佐。村上大隊。)は、優勢なソ連軍に包囲されて全滅に瀕していた[2][5][6][7]。しかし、整備の遅れが響いて、池田が戦闘に投入できる戦車は25両(戦車第11連隊の全戦車の4割程度)に留まり、戦車を支援する歩兵・工兵はゼロであり、「歩兵・工兵の支援を受けない、戦車のみでの戦闘」しかできない状況であった[5][注釈 2]

攻撃(第1回)

四嶺山の手前の沓形台まで麾下部隊を前進させた池田は、四嶺山を攻撃しているソ連軍について下記のように判断した[5]

  • 歩兵のみで、戦車を伴っていない。
  • 有効な対戦車兵器を持たず、重火器は迫撃砲だけである。
  • 時を籍せば、敵兵力はさらに増加する。

戦機到来と見た池田は、第91師団長堤不夾貴中将、歩兵第73旅団長の杉野巌少将[注釈 3]に下記のように無線で打電して、四嶺山のソ連軍への攻撃を開始した[5]

池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。0650[注釈 4]、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る。 — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、[5]

池田は、先頭を走る連隊長車の砲塔から上半身を乗り出し、手にした日章旗を振って陣頭指揮した[5]。ソ連軍は苦戦に陥ったが、対戦車兵器(対戦車砲4門・対戦車ライフル約100挺、対戦車手投黄燐弾など)を次々に陸揚げして迎撃態勢を整えた[9]

攻撃(第2回)、戦死

戦車第11連隊の稼働可能な全戦車が概ね揃った(歩兵は依然としてゼロ、工兵は若干名[10]。)、07:30頃、池田は2回目の攻撃を下令した[9]

この時、池田は将校と車長を集めて下記のように訓示した[9]

われわれは大詔を報じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆に敢えて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手を上げよ。 — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、『戦車第十一連隊史』より、[9]

全員がもろ手を挙げて答えたという[11]。戦車第11連隊は、07:50頃に2回目の攻撃を開始した[12]。09:00頃、ソ連軍の対戦車ライフル部隊の至近距離からの集中射撃を受けた連隊長車が搭載弾薬の誘爆によって炎上し、池田は連隊長車の全乗員と共に戦死した[12]。44歳没[12]

09:30頃まで続いた2回目の攻撃では、増援として独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二 少佐[13]。竹下大隊。)が戦闘加入したこともあり、戦車第11連隊はソ連軍を蹂躙し、上陸地点である竹田浜の方向に押し返すことに成功した[3][14]。その代償として、同連隊は連隊長の池田をはじめとして多くの将校を失い、最先任者となった第4中隊長の伊藤力男大尉(陸士(55期)[3])が同連隊の指揮権を継承した[14]。約4時間の激戦により[14]、同連隊の戦死者は97名に上り[15]、戦車27両を失った[3]

戦闘終結後に行われた遺体収容作業により、女体山と六九高地の中間地点で擱座している連隊長車が発見された[16]。連隊長車の中から半焼死体が発見されたが、戦車第11連隊軍医長が「連隊長なら奥歯に金冠がかぶせてある」[16]と指摘したことで池田の遺体であることが確認できた[16]。この遺体収容作業に参加した戦車第11連隊の兵卒は「幌筵島の柏原から応援に来た衛生兵が、戦死者と重傷者[注釈 5]を乗せたトラックを、まだ生きている者がいるのを承知の上でガソリンで焼き払い、『もう助からない。このまま生きて苦しめるよりも、本人のためなんです』[17]と言ったのを目撃した」という旨を戦後に証言している[17]

年譜

  • 大正11年7月28日:陸軍士官学校卒業(第34期)
  • 大正11年10月25日:任 陸軍騎兵少尉・騎兵第25聯隊附
  • 大正14年10月26日:陸軍騎兵中尉
  • 昭和7年8月8日:陸軍騎兵大尉・騎兵第27聯隊中隊長
  • 昭和10年12月:陸軍士官学校教官
  • 昭和11年8月1日:陸軍士官学校学生部附
  • 昭和12年7月:陸軍騎兵学校教官
  • 昭和12年11月:陸軍騎兵少佐
  • 昭和16年8月:陸軍中佐
  • 昭和16年11月:公主嶺陸軍戦車学校教官
  • 昭和17年11月:四平陸軍戦車学校教官(移転し改称)
  • 昭和19年7月15日:四平陸軍戦車学校長代理(~昭和19年12月30日)
  • 昭和19年12月:戦車第11聯隊長
  • 昭和20年6月:陸軍大佐
  • 昭和20年8月18日:戦死・陸軍少将進級

逸話

  • 四平の陸軍戦車学校の教え子に作家の司馬遼太郎がおり、司馬は池田から大いに薫陶を受ける。のちに、「いまでも、私は、朝、ひげを剃りながら、自分が池田大佐ならどうするだろう」と自問し、「わからない。何十年たっても答えが出ない」と述べている[18]
  • 占守島に連隊長として赴任したとき、荷物は柳行李ひとつだったという。
  • 戦車第11連隊長の職にあっても、入浴や下着の洗濯などの身の回りのことは、当番兵を使わずに自分で済ませた[19]。当番兵が恐縮すると「お前たちは私ではなく、国に仕えているのだ」と言った[19]。連隊の学徒出身者には「貴様たちは、得た知識を国のために活かすのが使命だ。自分たち軍人とは立場が違う」と語った[19]
  • 1945年(昭和20年)1月24日の布達式の際、吹雪の中で机の上に立ち挨拶を行ったという。
  • 占守島の戦いシベリア抑留を生き抜いて日本への帰国を果たした戦車第11連隊の兵卒の証言によると、2回目の攻撃を前にした池田は、軍服上衣を脱いでカーキ色のワイシャツに日の丸の鉢巻姿であった[9]。証言した兵卒は下記のように述べている[9]
「『連隊長は死ぬ気だな』と感じた。軍服を着てないのは、戦死した際に連隊長を表す階級章を隠すためと想像した。」[9]
  • 占守島の戦いが終結した後、激戦地となった四嶺山で回収された、池田をはじめとする戦車第11連隊将兵97名の遺骨は、同連隊の将校たちによって保全され、シベリア抑留を潜り抜けて日本に持ち帰られ、舞鶴港厚生省に引き渡された[20][15]

脚注

注釈

  1. ^ 相原秀起 『一九四五 占守島の真実:少年戦車兵が見た最後の戦場』(Amazon Kindle版、 PHP研究所、2017年)では、「第11戦車連隊は、(九七式中戦車改)(新砲塔チハ、47㎜対戦車砲)20両、(九七式中戦車)(チハ、57㎜砲)19両、九五式軽戦車(37㎜砲)25両、計64両を装備していた」という旨を記載している[2][4]
  2. ^ 「歩兵・工兵の支援を受けない、戦車のみでの戦闘」は、敵の対戦車兵器の脅威を排除できないため不利となる。
  3. ^ 戦車第11連隊は、第91師団長の命令(ソ連軍の上陸直後)により、歩兵第73旅団長の指揮下に入っていた[8]
  4. ^ 0650=午前6時50分。
  5. ^ 占守島の戦いが終結した時点で、日本軍の医薬品や衛生材料は不足しており、負傷者に対する満足な手当は出来なかった[17]

出典

  1. ^ 秦 2005, p. 15, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:池田末男
  2. ^ a b c 相原 2017, 位置No. 229-256、第1章 最前線:士魂部隊-戦車第十一連隊
  3. ^ a b c d e 防衛庁防衛研修所戦史室 1971, pp. 568–570, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:戦車第十一聯隊の反撃
  4. ^ 相原 2017, 位置No. 256-285、第1章 最前線:主力戦車-九七式中戦車と九五式軽戦車
  5. ^ a b c d e f g h 相原 2017, 位置No. 870-886、第2章 終戦三日後の激戦:池田連隊はこれより敵中に突入せんとす
  6. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 1971, pp. 560–561
  7. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 1971, pp. 566–567
  8. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 1971, p. 567-568, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:第九十一師団の反撃
  9. ^ a b c d e f g 相原 2017, 位置No. 946-975、第2章 終戦三日後の激戦:「白虎隊たらんとするものは手を上げよ」
  10. ^ 中山 2001, pp. 208–209
  11. ^ 相原 秀起『一九四五 占守島の真実 少年戦車兵が見た最後の戦場』PHP〈PHP新書〉、2017年7月28日、107頁。 
  12. ^ a b c 相原 2017, 位置No. 1017-1046、第2章 終戦三日後の激戦:池田連隊長の壮絶な戦死
  13. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 1971, pp. 181–182
  14. ^ a b c 相原 2017, 位置No. 1049-1063、第2章 終戦三日後の激戦:戦車連隊の戦死者は九十人を超えた
  15. ^ a b 相原 2017, 位置No. 2116-2132、第4章 抑留:守り抜かれた九十七名の遺骨
  16. ^ a b c 大野 2010, p. 334
  17. ^ a b c 相原 2017, 第3章 停戦:生きて苦しめるより本人のためなんです
  18. ^ 『風塵抄』(中央公論社)、村井重俊「週刊朝日」
  19. ^ a b c 早坂隆 (2015年11月25日). “”. WEB歴史街道. PHP研究所. 2019年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月29日閲覧。
  20. ^ 相原 2017, 位置No. 1597-1614、第3章 停戦:四嶺山での遺体回収

参考文献

  • 相原秀起『一九四五 占守島の真実:少年戦車兵が見た最後の戦場』(Amazon KindlePHP研究所、2017年。 
  • 大野芳『8月17日、ソ連軍上陸す』新潮社〈新潮文庫〉、2010年。ISBN (978-4-10-133221-5)。 
  • 中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。ISBN (4-12-203858-8)。 
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『北東方面陸軍作戦<2>:千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1971年。 

関連項目

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