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毫摂寺(ごうしょうじ)は、福井県越前市にある浄土真宗の寺院で真宗出雲路派の本山である。
毫摂寺 | |
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所在地 | 福井県越前市清水頭町2-9 |
位置 | 北緯35度53分33.1秒 東経136度13分34.6秒 / 北緯35.892528度 東経136.226278度座標: 北緯35度53分33.1秒 東経136度13分34.6秒 / 北緯35.892528度 東経136.226278度 |
山号 | 出雲路山 |
宗派 | 真宗出雲路派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 天福元年(1233年) |
開基 | 親鸞 |
別称 | 五分市本山 |
法人番号 | 5210005007163 |
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歴史
毫摂寺は、天福元年(1233年)親鸞が山城国愛宕郡出雲路(現在の京都府京都市北区)に創建し、善鸞(第2世)に附与したのに始まると伝えられるが、実際は本願寺の第3代覚如の高弟(乗専)が創建したとされる。
覚如の子(善入)(第3世=幼名 菊寿丸)が住持となり今出川に寺基を移すが、明徳の乱の戦火にあい、暦応元年(1338年)に(善幸)が住持を兼ねていた越前国山本庄(現在の福井県鯖江市)の證誠寺に毫摂寺も寄寓した。
文明14年(1482年)、善幸の次男の(善鎮)が住持となるも門末を率いて自ら本願寺蓮如に帰参し(正闡坊・府中御堂陽願寺開基)、その子(善覚)(第9世)が継ぐも寺勢は衰退する。
越前一向一揆の兵火にあい、さらに證誠寺との争いが起き、(善秀)(第11世)は失意のうちに没した。嗣子として柳原家より迎えられていた(善照)(第12世)は教線の拡大につとめ、慶長元年(1596年)に寺基を現在地に移して再興した。おりしも小丸城が廃城となって停滞していた城下町五分市(ごぶいち)は毫摂寺の門前町として発展し、同寺は「五分市本山」と称されるようになる。
元禄年間(1688年-1704年)より明治維新に至るまで青蓮院の院家となり天台宗に属した。門主は花山院家の猶子となる定めであり、寺紋も同家の(菖蒲菱)[1][2]が使用された。善准(第17世)には世子がなく(善栄)(第18世)は興正寺第22世(寂永)の子である。善慶(第22世)は一条忠香の養女一条輝子を室に迎えた。
1872年(明治5年)、教部省設置にかかる指令により浄土真宗本願寺派と合同したが、1878年(明治11年)、同省廃止をうけ独立して一派を成した。
境内は(味真公御助麻呂)館の跡と伝えられ、世に味真野長者屋敷といわれている。境内に建つ堂宇のうち阿弥陀堂と御影堂は1878年(明治10年)に火災で焼失後、1884年(明治17年)に再建されたもの。鐘楼や経藏、諸門などは文化8年(1811年)の造営。
文化財
- 光明号本尊1幅(市指定文化財)
- ヤマモミジ(市指定天然記念物)
出典:[4]
所在地
- 福井県福井県越前市清水頭町2-9
脚注
参考文献
- 瓜生津隆真、細川行信『真宗小事典』(新装版)法藏館、2000年。ISBN (4-8318-7067-6)。
関連項目
外部リンク
- 毫摂寺サイト