武藤 友益(むとう ともます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。(若狭武田氏)の家臣。内藤重政、粟屋勝久、熊谷直之と並ぶ武田四老の一人。別名は武藤景久。通称は佐分利殿、上野介。
生涯
若狭国守護である若狭武田氏に仕えた。若狭国大飯郡佐分利郷石山に石山城3,000石を領し、特に佐分利郷十七力村を領したため「佐分利殿」といわれた(『若狭国史』)。のちに同大飯郡加斗城2,000石も領し、一族に守備させた。
この頃の若狭武田氏は越前国の朝倉氏に従属しており、越前(一乗谷)在住の武田元明の命で武田信方と同心し織田氏と戦った。元亀元年(1570年)4月、織田信長は抵抗する友益の討伐を口実に越前の朝倉氏を攻めた。この越前出兵は失敗に終るが(金ヶ崎の戦い)、その後、友益は姉川の戦いに勝利し勢力を回復させた信長によって大飯郡石山から追放された。なお、石山城は信長により隣の領主・逸見昌経に与えられ、昌経死後は織田氏に恭順した武田元明に与えられた。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こり織田信長が横死すると、明智光秀方についた元明に従い佐和山城を攻め落とした。山崎の戦いの後、友益は追放処分となるが、後に許されて丹羽長秀に仕えたという(『丹羽歴代年譜付録』)[1]。