武田 信清(たけだ のぶきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。甲斐武田家、米沢藩上杉家の家臣(米沢武田家)。
生涯
武田信玄の六男(七男の説もある)[4][5]。母は信濃国小県郡の禰津氏の娘である禰津御寮人であるという。正室は甲府城下の長延寺住職である(実了師慶)(長延寺実了)の娘。色部清長は孫にあたる。
永禄10年(1567年)、信玄の命により巨摩郡加賀美(南アルプス市加賀美)の法善寺に入り、玄竜と号した[6]。後に兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し安田三郎信清と名乗り、海野城主となる。
天正10年(1582年)3月の甲州征伐による武田氏の滅亡後、高野山(無量光院)に逃れる[4][7]。同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・菊姫の縁を頼って上杉氏に寄寓し、3,000石を与えられた[4][7]。会津時代には3,300石を賜る[4]。米沢藩時代には、藩主親族、高家衆筆頭として遇され、1,000石を領した[4]。慶長19年(1614年)、大久保長安事件で江戸幕府から嫌疑を受けるも、事実無しとされ帰領した。
寛永19年(1642年)3月21日、80歳(もしくは83歳)で死去[4][7]。上杉氏の菩提寺・林泉寺に葬られた[4]。法名は、虎山玄竜居士[4][7]。
春日山林泉寺
信清の墓は、本堂の南側に位置する武田家墓域の中で最大の五輪塔。高さ2.3メートル。一番下の地輪の一辺は77センチと大きく、各輪に、禅の公案である「祖師西来意」の五文字を刻んでいる。昭和28年(1953年)2月20日、山形県の文化財(史跡)に指定された[4][5]。
脚注
参考文献
- 丸島和洋「安田信清」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
外部リンク
- 武田信清の墓 - 米沢市
- 武田大膳太夫信清の墓 - 山形の文化財検索サイト「山形の宝 検索navi」(山形県)
- 春日山林泉寺