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来歴・人物
三重県度会郡度会町出身。宇治山田商業高校で3年生の時に、1976年夏の全国高校野球の三重大会で遊撃手として出場し活躍したが、準決勝で三重高校に敗退し、甲子園への出場は実現しなかった。高校同期に捕手の山本穰がいた。俊足の超大型内野手として注目されて、同年のドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名されたが入団を拒否し、駒澤大学に進学する[1]。
東都大学リーグでは同じポジションに石毛宏典や広瀬哲朗らがいたので、出番が少なく、4年生の時に、外野手にコンバートされて、中堅手や右翼手として出場した。
大学卒業後は名古屋鉄道管理局に入社。都市対抗野球大会や社会人野球日本選手権大会にも出場した。
その後、2008年から皇學館大学の監督を務め[2]、2014年には春季三重県リーグを初制覇し、翌年には、チームの全日本大学野球選手権大会への初出場を果たした[3]。2018年の東海地区大学野球秋季選手権大会ではチームの初優勝を果たしている[4]。