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桂 枝雀(かつら しじゃく)は上方落語の名跡。二代目の死後は空き名跡となっている。
- 初代桂枝雀 - 本項を参照
- 代外桂枝雀 - 昭和10年代の寄席ビラに枝雀の名が確認できる。色物だったとされているが詳細は不明。
- 二代目桂枝雀 - 現在「桂枝雀」「枝雀」と言えば一般的に二代目のことを指す。
経歴
大阪の足袋商「古滿屋」の子として生まれ、11歳で質屋に奉公に出たり家業を継いだりしていたが、芸事に興味を持ち地歌や舞踊の稽古に通う。後、友人の勧めで、上町にあった素人落語の「緑連」に加わり、喜代丸を名乗る。1884年11月、二代目桂文枝に入門し、枝雀を名乗り、生涯変えなかった。1898年に真打となる。
桂派が凋落の一途をたどる中、二代目桂南光、三代目桂文三らと共に同派を良く支える。仁左衛門の死後は、1912年に四代目笑福亭松鶴らと共に自身の名にちなんで(寿々女会)を組織するも、加入した四代目松鶴に人気を持っていかれ本人は出演ができず退派し、間もなく当時の元号にちなみ(大正派)(別名三友藤原派)を立ち上げ、平野町(第一此花館)を本拠とするが、1916年に解散。その後すぐ(新桂派)を結成するが、2年と持たなかった。その後、京桂派、反対派、吉本興業部などに加入。1926年頃に引退。
引退後は東大阪市の布施に住み、平穏な余生を過ごした。同業者との連絡は一切絶っていたため、死期も分からず仕舞だったという。
弟子
- (桂雀四郎)
- (三代目桂萬光)
- (二代目桂談枝)
- 初代桂紅雀
独立
- (初代桂雀三郎)
芸風
SPレコードは明治末から大正にかけて多く残されている。何故かジャケットレーベルは「桂雀枝」「桂文雀」「桂芝雀」等の名で吹き込まれている。小噺が多い。
音曲も独特なもので、一席終えた後、「フェー」といった奇声を発してから、笑福亭吉右衛門仕込みの大津絵節などを聴かせたという。
痩躯にあばた面、片目が不自由といった風体だったが、笑いの多い愛嬌ある高座で、桂派でも一番の人気者だった。三友派の二代目桂米喬と共に、初代桂春團治出現以前の爆笑王として名を馳せた。
演目
出典
『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)